2)
私の周囲を眺め渡してみても、別の意味で、時間の経過を感じずにはいられません。
私はこれまで、同僚のS先生とW先生の存在に何度か言及してきました。二人の先生のご家族と、私の家族はほぼ同時期(二〇一一年三月一五日前後)に、栃木県の南部を襲った大量の放射能プルームを逃れて、それぞれの実家に避難しました。その後、私が避難という選択の是非について妻と押し問答をくりかえしている間に、二人の先生は早々と職場に復帰し、福島県内から避難してきた母子たちの支援を始めました。当時、自分も当事者としての事情を抱えながら、あちこちの現場を走りまわる二人の先生の姿に接して、私は驚愕したものでした。
S先生とW先生は、地域の避難所をひとつひとつ訪れ、原発事故が原因で故郷を去った人々がどのようなことを考え、何を必要としているのかを詳細に聴き取っていました。その聴き取りの内容を踏まえて、それぞれの場所でできる支援活動につなげていったのです。途中からは、N先生という頼もしい助っ人が合流し、三人の先生による支援と調査の裾野は着実に拡がっていきました。その全容を記述することは、本連載の趣旨とは異なるので割愛します。
ただ一点、先生たちがこのような活動の一環として、同じ原発避難という苦境を経験した親同士が交流できる会を、何度も開催した事実に触れずにすますことはできません。S先生、W先生、N先生は、託児をセットにした茶話会を、学生たちと一緒になって企画し、次々に実行に移していきました。日々の授業や学務をこなしながらそのような活動を続けることは、傍目で見ていても並大抵のことではありませんでした。現に、大学教員が避難者の肉声に即して支援を展開した例は、全国的に見てもそう多くはなかったはずです。
とはいえ、その活動の内容も、歳月を経るなかで次第に変化していきました。どんなものでも常にすでに移ろいゆく以上、これは当然のことなのかもしれません。現に、あの事故から三年目の年に、避難者支援という面での活動は、解散されることになりました。現在は、原発事故がもたらした社会的な影響に関する調査として、N先生が栃木県内の当事者の証言を、W先生が新潟県内の支援団体の証言を記録しています。
2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。