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ところが、二〇一六年九月現在、もはや「第二の加害者」という表現では済まされないような事態が、沖縄県北部の東村高江区で進行中です。
この件に関して語る資格が私にあるのかどうか、いまでもためらいがあります。けれども、沖縄からネット配信されるニュースをたどりつづける私自身の中で、何が起きていたのかを書き留めることなら、私にもできるのではないか、という気がしています。
よく知られているように、沖縄では七月の参院選において現職の与党議員が大敗しました。この選挙結果は、辺野古や高江で強引に進められてきた米軍の新基地建設と、それに伴う自然や住民の暮らしの破壊に対して、沖縄県民が「NO」を突きつけたことを示すものでした。県民の「民意」は、誰の眼にも明らかです。
ところが日本政府は、こうした選挙結果が出た翌日から、それまで中断されていた高江のヘリパッド建設工事のための搬入作業を再開しました。さらに、日本全国の都道府県から五百名近くの機動隊員を招集し、近隣の道路を封鎖したうえで、七月二二日には、そのことに抗議する住民を強制的に排除しました。県民の声、住民の心を踏みにじる暴挙だと私は思います。
ネットでたどれる限りの情報をさかのぼっていくと、機動隊員の招集元は、東京、大阪、福岡、千葉、愛知などに及ぶようです(琉球新報、二〇一六年七月一八日)。まさに日本本土の各地からかき集められた集団が、小さな村をターゲットにしていることが分かります。この報道に触れたことで、私の脳裏で「第一の加害者」という言葉が明滅することになりました。
沖縄タイムズ紙は、この住民強制排除の事件について、こう報じています。「反対の市民らは工事車両の進入を防ごうと、約170台の車を県道に止めて対抗したが、機動隊が次々とレッカー車や専用機材で移動させた。(中略)機動隊との激しいもみ合いで、50代男性が肋骨を折る全治一か月の重傷を負ったほか、男性一人が街宣車から転落し、女性一人が首への強い圧迫感を訴えるなど三人が救急搬送された」(七月二三日記事)
文面からは、現場の騒然とした雰囲気が推察されます。ただ、私が衝撃を受けたのは、この記事と同じ頃にネットにアップされた琉球朝日放送の現場映像でした。
ほぼ濃紺一色の制服と制帽がずらりと整列し、住民たちを威嚇するように包囲している光景…… 「なぜ沖縄だけがこんなに差別されるんですか?」、「頼むから俺たちの暮らしをそっとしておいてくれ」と涙ながらに訴える住民たちを前に、能面のような無表情で沈黙する分厚い壁…… 道路に座りこむ住民の一人ひとりを、五名から十名で寄ってたかって羽交い絞めにし、次々に運び去っていく集団…… そして、街宣車の上で抗議する女性の顔面に、思いきり殴打を浴びせる機動隊員の後ろ姿……
特に、最後に挙げた殴打のシーンを見ることで、私は眩暈とも戦慄ともつかぬ感覚に襲われました。もしかすると、カメラの角度が、殴られつづける女性の顔を直視する形になっていたことも影響したのかもしれません。女性に容赦のない拳骨を食らわせる制服の後ろ姿からは、不穏な熱気がほとばしっていました。そこには、まるで暴力行為を満喫しようとするかのような禍々しい情念が、剥き出しになっていました。私はただ、その執拗に再生される殴打の光景を呆然と眺めるばかりでした。
そうこうするうちに、自分はどうしようもなく無力で、救いようのない卑怯者なのだという、にわかには説明のつかない、混乱した思いがこみあげてきました。ほぼ完全に無抵抗の当事者が殴られつづけるその動画は、物陰からリンチの現場を目撃してしまったときのような宙吊りの焦燥感と脱力感で、私の内側を満たしていきました。喉元までせりあがる「やめてくれ!」という叫びが、声になる直前の状態で、曖昧に滞留していました。
その瞬間、私はどのように言い訳しようとも、剥きだしの暴力にさらされた当事者の傍らにはいませんでした。私が立っていたのは、当事者をなぶり、はずかしめ、痛めつける集団の背後、それもはるかに遠く後方でした。そのような場所から暴力行為の一部始終をまなざすということは、加害の現場を黙って見過ごすということと、どこが違うというのだろうか?…… 客観的には飛躍を含んでいるかもしれませんが、その時もその後も、この疑問は私の頭にこびりついて離れませんでした。どれだけ抗議声明の呼びかけに署名しても、どれだけ辺野古や高江の現場へのカンパの協力を繰り返しても、その疑問を解消することはできませんでした。
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こうしてこの稿を閉じようとしている今、私がくりかえし思い浮かべているものがあります。それは、避難先のG村で、五年半に及ぶ歳月を通してお世話になってきた地元の方々の顔です。
もうすぐ生まれるEのために、わざわざ義父宅までベビーベッドを届けに来てくれたNさん。
Kの誕生日会を自宅で開いてくれたタケトミノオバアと、その長女のHさん。
避難生活が長びく妻と私を励ますために、地元特製の泡盛をプレゼントしてくれたRさん、Tさん。
私が不在のまま迎えたKの運動会の日、ひとりで観戦するのは寂しかろうと、自分たちのシートに妻を呼んでくれたK田さん。
いつも店先にKとEを呼んで、かき氷を食べさせてくれたアイスクリーム屋のTさん、Iさんご夫妻。
本業は、私の祖母の介護であるにもかかわらず、避難生活と出産後の憂鬱に沈みこむ妻を外に連れだし、となり町のレストランでご馳走してくれたヘルパーさんたち。
そして何よりも、一度は本気で私との離婚を考えたという妻の身を案じ、ある大きな仕事を任せることで、みずから快復に向かうように背中を押してくれたM保育園の先生たち。
きちんと挙げていこうとすると、切りがありません。私たちが避難先で受けた数々の恩義はあまりに大きく、どんなに感謝の気持ちを示そうとしても、それで十分ということはありません。その恩義の大きさ、ありがたさを噛みしめるたびに、私がみずからの足場としてきた本土のことを恥ずかしく感じ、居ても立っても居られない気持ちになります。
本土が戦後七十年間に渡って沖縄に押しつけたまま、知らんぷりを決めこんできた米軍基地の歴史。その歴史ゆえに絶えることなく引き起こされてきた、米軍関連の大事故や暴力事件の数々。そして今や、その米軍の新基地をさらに建設するという理由で、住民の暮らしの上に振りおろされる日本の警察の暴力。
考えれば考えるほど、自分はいったいどのような顔をして、地元の方々の前に立つことができるのだろうと、自問せずにはいられなくなるのです。
東京電力福島第一原発事故が起こり、飛行機に飛び乗り向かった先の沖縄は、その後、母子が生活する場所となることで、「地元」となりました。そこには、心あたたまる人々とのふれあいや安心感があると同時に、「本土」では想像することもできないような、厳しい沖縄の現実がありました。筆者の苦悩を、私たちがどれほど共有できるか、それが問われています。
これに似た事案は本州でも起きてますよね。
沖縄特有ってことはないでしょ。