原発震災後の半難民生活

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 ひとつの反省は、数珠つなぎのように、ほかの反省をたぐりよせるようでした。それぞれは互いに密接な関係もなければ、さしたる脈絡もない、いくつかの反省の断片たち。それでいて一度でもスイッチが入れば、一気に記憶の器からあふれでてくる後悔と恥ずかしさの切れ端たち。事実、一定の冷静さを確保できるようになった現段階で眺めなおしてみると、事故後の興奮も手伝っていたとはいえ、私が人前でしたこと、述べたことのいくつかは、ずいぶんと思いやりを欠いた、人間として恥ずかしいものだったように思います。

 たとえばこの連載を始めたころ、私は2011年3月15日の羽田空港で、かつての研究室仲間だったS君と再会したことについて触れました。実は、その件については後日談があるのです。

 S君が、奥さんと生後間もない赤ちゃんを連れて避難した先は、八丈島でした。別れ際に交換したアドレスを通して、私たちはそれ以降もメールのやりとりを続けていました。S君は、避難先で情報に飢えていました。彼が滞在したのは離島の民宿だったので、部屋のテレビを見て「(原発事故の状況も)少しは良くなってるようだ」と安心したかと思えば、喫茶店に出向いてネットのニュースで拾い読みするうちに落胆するということのくりかえしだ、と書いていました。

 そのようなわけで、八丈島への避難を継続していたS君にとって、彼よりもはるかにネットにアクセスできていた私からの情報は、喉から手が出るほど欲しいものだったでしょう。このことは、毎回のように手短でありながらもきびきびしたS君の返信内容に、端的ににじみでていました。

 こうして、私からS君への情報提供メールは、かなりの頻度で送られることになりました。ただし、それもゴールデンウィークが明けて、私が沖縄滞在から宇都宮に戻るころまでの間だったのですが……

 あのころの私は、原発事故という前代未聞の出来事を前にして、ただただ無我夢中でした。自分がくだす判断の一つひとつに全身全霊をかけてぶつかっていったということは、誓って言えます。しかし、それはそれとして、私がS君に送信したメールの文面は、お世辞にも冷静なものとは言えませんでした。事故後の数ケ月間に送受信したメールは今もサーヴァーに保存されているのですが、一通一通を読み返していくと、背中から冷や汗が出てくるほど一人よがりな内容で、我ながらうんざりとさせられるのです。

 一言でいえば、放射能汚染の危険性を言いつのるばかり。たとえそれが事実だとしても、情報からブロックされているS君がどのような気持ちで受け止めるのかということについて、当時の私は著しく想像力を欠いていたように思います。

 私信のやりとりを逐一引いても、読者のみなさんには退屈なだけでしょう。なかには、S君のプライベートにかかわることも混じっていますし、そもそも私自身が読んでも意味不明な箇所が含まれている始末です。

 ほんの一通だけ、S君からの最後の返信が来る前に私が送ったメールを引いてみます。それは、4月半ばころに送信したものです。前段落で述べたような事柄をクリアすべく、ある程度の「加工」を施してあることは補足しておきます。

 「S君、

 こんにちは。連続でのメール送信、失礼します。お伝えしそびれてましたが、少し前に、家族を沖縄に残して、僕だけ宇都宮に戻っておりました。

 熟考に熟考を重ねました。何度考えても、結論は『このまま、家族は沖縄に留める』です。

 特に、例の3号機に大量のプルトニウムが混入しているという情報を知ってから、この結論は動かなくなりました。そんなものが爆発したわけですから、前代未聞のおおごとです。考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうです。

 文科省や各県庁のサイトでも、汚染物質のフォールアウト情報をよくよく確認してみました。そこから判断するかぎり、3月15日の爆発後、宇都宮はもちろん、関東一円にまで大量の放射能がやってきたということは、やはりまちがいないと思います。
 
 15日の当日は、僕らもそうとは知らず、えんえんとプルームのなかを逃げつづけていました。もしかしたら、あの日の羽田空港にも、本当はプルームが来ていたのかもしれません。

 こうした事情を踏まえ、総合的に判断するなら、これ以上、娘や、出産を控えた妻を無用に被曝させるわけにはいかない、と結論せざるをえませんでした。

 もちろん仕事をすぐに辞めるわけにはいかないので、僕も職場に戻ってきました。いまは転職の可能性も含めて、将来どうするのかを検討していくしかない、という心境です。

 実はいま現在も、心が折れそうになりながら、各地の汚染情報をたどっているところです。東京新聞以外のマスコミは、ほとんどまともに汚染の問題性を報じようとしていません。少なくとも、僕にはそう見えます。

 なにも信用できない。自分のなかの内なる声に従うしかない。そう思っています。

 またご連絡します。

                                岩真拝」

 「岩真君、

 メール拝受。実は僕も東京に戻っています。正直、くたびれています。

 今後どうするかは少し頭を冷やして考えたいと思っています。

 これまで様々な情報をありがとうございました。

                     S」

 文面を書き終えたとき、S君はどのような気持ちでいたのだろうか?…… このような後悔まじりの疑問が、何度も私のなかでよみがえってきます。

 このメールを境に、S君からの音信はぱたりと途絶えました。私が何度か近況メールを送っても応答がないまま、現在にいたっています。

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5章:再び宇都宮にもどってからのこと その1「憂鬱と後悔と」」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    実に1年半ぶりの更新となりました。その間、「フサギの虫」に取り付かれていたという筆者。なぜそんな状況になってしまっていたのか…その理由をかみしめるように書いてくださっています。さて、2012年3月から続いてきたこの連載も、いよいよ終盤を迎えます。引きつづき、お楽しみに。

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