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その日の夕方にやっと電話がつながってみると、意外にも妻はしゃんとしていました。「そんなに何度もコールされたって、運転中だからムリムリ!」。妻はおどけてみせてから、こんな言葉を付け加えました。「今回の結果は残念だけれども、わたしももう年が年だから仕方がないよねって、割り切ることにした」
――宇都宮にいたころ、不妊治療してるオトモダチが何人もいたでしょう? 子宮のなかから汚れを掻き出す話は聞いてて辛かったけど、わたしもできれば3人くらい子どもが欲しかったし、明日はわがみと思ってたから、詳しいことをたくさん聞かせてもらったんだよね。オトモダチの話だと卵子っていうのはね、女のひとの年齢がすすめばすすむだけ、どんどん劣化していくんだって。「劣化」なんて言い方、そのときはほんとうにイヤだなと思ったけどね、子どもを産む立場に立って考えると、こういう表現になるのもある意味しかたがないんだろうね。わたしもいつの間にか「妊娠適齢期」を超えてしまったんだもの。もう、卵子が「劣化」していたんだよ。
――そんなこといったら、オレの精子の劣化はもっとひどいはずだけどな。とっくの昔に四十の坂を転げ落ちてるわけだから。
文字に書き起こしてみるとしょうもない返答ですが、妻の「割り切りかた」に面喰っていた私の感覚では、こんなふうに反応するよりほかなかったのです。
その後の細かいやりとりのすべてを覚えているわけではありません。出産はさ、精子よりも卵子の「鮮度」が大事だからねー、と沖縄風のイントネーションで笑い飛ばした妻の声。でも、本当はそういうことじゃなくて、オレが被曝していたことが原因なんじゃないか?…… ないない! それはないってば! 昔からあなた、自分の生命力の強さはゴキブリ・クラスだって力説してたじゃないの!…… 内容もさることながら、私の耳にこびりついているのは2人の声のトーンでした。
これくらいの軽口がすいすいと出てくるのだから、きっと心配したほどのダメージは受けていなかったのだろう。私は半ば胸をなでおろすような気持ちで、電話を切ったのでした。
ところが、病院で堕胎手術をした後、妻の調子は一変していました。すべてを順序だてて思い出せるわけではないのですが、当時の電話口から切れ切れに伝わる妻の心の揺らぎは、触れればすぐにでも崩れ落ちそうな危うさの印象とともに、いまでも私のなかに蘇ってきます。
たとえば、全身麻酔から覚めた後のまったりとした、とろみを帯びた妻の声。
――赤ちゃんは見せられませんて、言われちゃった…… 体の形も分からないくらい肉が溶けてたって話だったから、もうだいぶ前から呼吸停止してたのかも…… びっくりしたのはね、2年前にその病院の検査で見つかった筋腫が、なぜかきれいさっぱり消えてたんだよ。お医者さんも少し驚いていたけれど、まったく珍しいケースというわけでもないんだって。わたしはゴンちゃんが筋腫を吸い取ってくれたんだと思う。ゴンちゃん、ありがとうって思うよ。お母さんの体のなかの毒を、ぜんぶきれいにしてくれて、ありがとうって……
そのまま沈黙が流れこむ電話口の向こうから、ごくかすかながら、鼻をすする音が聞こえてくるのでした。
あるいはまた、手術から一日たってもまだ、体の芯を支配するシビレが舌の筋肉にまでしみだしてきたような、こもりがちの妻の声も思い出されます。
――あなたのお母さんとアメリカーの旦那さんが、さっきメールくれました。「今日になって急に用事ができたので、すいませんけどKちゃんとEくんは預かれなくなりました」だってさ。何度も念を押して確認したのに。昨日までは「大丈夫ですよ」をくりかえしてたのに。やっぱりこれだよなっていうか、ドタキャン常習犯っていうか、たった一日ぽっきりのお願いなのにどうしていっつもこう、平気な顔で約束をひっくり返すことができるんだろう?…… 日ごろは「ファミリーだ」、「アワ・ホームだ」なんて、口先からバーゲンセールみたいに美辞麗句が飛び出てくるアメリカン・マインドなお2人だけどさ、肝腎のファミリーのひとりが、体がしんどいからほんの数時間、子どもたちを預かってくださいってお願いしてるだけだのに、当日のしかも直前になってこの扱いだよ。We are too busy ! Sorry ! だってさ。アメリカの知り合いに一日中ぱたぱたとメール打ってるだけなのは、あたし同居してたときから、よく知ってるんだ。いったいどこがどう「ファミリー」なんだろう? 悔しくて情けなくて、もう二度とこの人たちにお願いなんかするもんかって、そう思ったよ。
実に1年半ぶりの更新となりました。その間、「フサギの虫」に取り付かれていたという筆者。なぜそんな状況になってしまっていたのか…その理由をかみしめるように書いてくださっています。さて、2012年3月から続いてきたこの連載も、いよいよ終盤を迎えます。引きつづき、お楽しみに。