原発震災後の半難民生活

3)


 一つひとつはとても些細なすれ違いが、少しずつ少しずつ、私たちの間に降り積もっていきました。

 もはや正確な日付は定かではないのですが、あれはたしか、私が沖縄に滞在を始めてから間もない日の午後のことでした。私と妻は、義父宅のテレビルームで、その家に住むみんなの洗濯物を黙々と畳んでいるところでした。Kはといえば、私たちの傍らで、静かにお絵かきをしていたように記憶しています。

 とつぜん、妻の携帯電話がメールの着信を知らせました。妻は洗濯物を脇に置くと、気だるそうな手つきで携帯を取りあげました。私はしばらく畳む作業を続けていたのですが、ふと妻のほうを見ると、わなわなと口元をふるわせながら、携帯の画面に見入っています。

 ――どうした? だれのメール?

まるで私の声がスイッチでも押したかのように、妻は畳に携帯をたたきつけると、両手で顔を覆いました。私は半ば驚き、半ば不審に思って、畳の上で無惨に股を広げるその器械に手をのばしました。画面に表示されていたのは、次のような一文でした。

 ――そろそろ戻ってこないと、永遠に戻れる雰囲気じゃなくなっちゃうかもヨ~~

 メールの発信者は、Xさんでした。「3章その1」でも紹介したように、この女性は、宇都宮で近所に住む「ママ・トモダチ」のひとりでした。Xさんが言いたかったのは、こういうことだろうと思います。「おトモダチのなかで、宇都宮から逃げたのはあなたの家族だけ。いつまでも自分たちだけ<安全>な場所に留まっていると、こちらに戻ってきたとしても、みんなが気持ちよくあなたを迎えることはできなくなっちゃうかもヨ~~」

 意地の悪いメッセージだとは思います。現に私は頭を殴りつけられたような気分でしたし、妻は大きなお腹を抱え込んだまま、静かに嗚咽していました。二人とももう少し平静に構えて、この程度の小さな悪意など適当に受け流しておけばよかったのかもしれません。ただ、私たちの心の中にも、いち早く<安全圏>に逃げてしまったことへの自責の気持ちがあったことは事実でした。Xさんのメッセージには、本人の意図いかんにかかわらず、そのような私たちの良心の呵責を的確に抉り出すような効果があったのです。

 その時、Kが少しだけ顔をあげました。そしてじっと母親の様子を注視していましたが、しばらくすると再び目を落とし、黙ってお絵かきをつづけるのでした。

 もう一つ、はっきりと覚えている出来事があります。それは、ネット上でのガイガーカウンター購入の手続きを、義父に手伝ってもらっていた時のことでした。

 事故直後の日本国内では、なかなかよい測定器が見つからず、たとえ見つけられたとしても「入荷まで数ヶ月待ち」という表示が出てくるのがざらでした。そこで義父と相談し、アメリカ製の器械を見繕って、彼が勤務する嘉手納基地内に郵送させようということになったのです。義父と二人でネットサーフィンした末にたどり着いたのは、テキサス州にあるL社から出ていた「2401-P」という型のガイガーカウンターでした。ホームページ上の説明書きを読む限り、「ガンマ線、ベータ線、アルファ線のすべてが検知可能」という触れ込みになっていて、値段もさほど高くありませんでした。もっとも、一般にアルファ線の検出は、著しく困難を極めるという知識を得た今となっては、この触れ込みもやや疑わしく見えてくるのですが……

 私と義父があれこれと議論していると、背後から妻の声がかかりました。

 ――なにしてるの?

 ――アメリカ製のガイガーカウンターを見てるんだよ。

 ――ガイガーカウンター? なにそれ?

 ――放射能の測定器。

 一瞬、沈黙が流れました。「なんでそんなもの見てるの?」

 ――宇都宮の汚染を調べたいからだよ。

 妻の顔がみるみる蒼ざめていきました。妻は吐き捨てるように言いました。

 ――またそうやって放射能ネタで盛りあがってるわけ? いつまでそんなことすれば気がすむの? 本当にいい加減にしてほしい。あなたといっしょにいるだけで、頭がおかしくなりそう。

 一気に激してくる感情を持て余したかのように、妻はぷいとその場を立ち去りました。玄関口の方から、引き戸を開け閉めするけたたましい音が家中に響き渡りました。私と義父は顔を見合わせました。私は後を追うかどうか躊躇しましたが、その場で感じたなんとなくの判断で、ネット上での手続きをつづけることにしました。たぶん、この判断は適切ではなかったのだと思います。

 辺りはいつしかうっすらと暮れはじめていました。夕食の時刻になってもなかなか妻が戻ってこないので、「さすがにおかしい」という話になりました。私は義父と話し合った結果、二人で二手に分かれ、車でその界隈一帯を探しまわることにしました。

 G村の道は、国道から少し逸れただけで、まるで迷宮のように複雑に入り組んでいきます。「道」というよりは、「路地」と名指したほうがふさわしいかもしれません。曲がり角に差しかかるたびに、次の瞬間、何が出てくるのか分からない無気味さがあるのです。こうしてくねくねと薄暮の下を蛇行している間にも、空を占める暗がりの成分が、目に見えて濃くなっていきます。宇都宮の夜とは比べものにならないほどの、黒々とした闇のとばりが村全体を包みこんでくるのです。車のライトに切り取られた路地の一角が、それ自体で呼吸でもしているかのように、独特の量感をもって目の前に迫ってきます。

 私は焦る気持ちを押さえ、義父と携帯電話で状況を共有しながら、しばらく集落の中を巡回しつづけました。しかし、妻の姿はどこにも見当たりませんでした。

 私はいったん諦めて、家に戻ることに決めました。そして小さな川の上にかかった分厚いコンクリの橋を渡り、義父宅の方角に向けてハンドルを切ったその時、川べりの路地の一角から、タヌキのようにお腹をせり出した女性のシルエットが、ひょっこりとライトの前に出てきました。

 私はサイド・ウィンドウを開けて、怒り半分、安心半分の気持ちで顔を突き出しました。

 ――どこ行ってたんだい? さんざん探したんだぞ!

 すると妻は、夜目にも分かる凄まじい形相で私をにらみつけたきり、そのまま家の方角に歩み去ろうとします。私は徐行しながら、もう一度語りかけようとして車体を妻のほうに寄せていきました。妻は前を向いたまま歩みを止めることなく、奇妙に抑揚を欠いた調子で言いました。

 ――あんたってひとは、あたしのことを苦しめつづけるんだ。

 ――とにかく、車に乗りなさい。こんな状態じゃ話もできないじゃないか。

 ――あたしは別に話なんかしたくありません。

 ――じゃあ、なんで「苦しめつづける」なんて言うんだよ?

 ――別に。理由なんかありません。

 妻はえっちらおっちらと歩きつづけました。私の車はその後を追って、三度、四度と路地を曲がりました。とうとう両脇にシーサーが控えた門をくぐると、ずっと外に出て待っていたのでしょう、はじけ飛ぶように走り寄ってきて、全身で妻の体に抱きつくKの淡い影が、ライトの向こうに映し出されているのでした。

 庭に植えられたバナナとパパイアの木々が、湿り気を帯びた風を受けてざわめいていました。

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4章:ゴールデン・ウィーク――沖縄にて その4「ガジュマルの木の下で」」 に1件のコメント

  1. なかもと より:

    思い出すのも書き出すのもお辛かったでしょうに、本当にありがとうございます。
    「何が一番正しいのか」を見つけるのも設定するのも本当に難しい問題です。

    子供はいろいろなことを敏感に感じて、子供なりに一生懸命なのでしょうね。
    それがポジティブであってもネガティブであっても、それが「親の本気」から来るのであればきっとそういうことも糧にして、たくましく育ってくれるのではないか、そうあって欲しいと思います。

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