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那覇から高速に乗って義父宅に戻る道すがら、私はハンドルを握りしめながら、改めてNさんの厳しい口調を思い返していました。私の記憶のなかで、温厚で、物静かで、慎重な言葉選びに徹するイメージだったはずのNさん。その彼の顔が、「沖縄人」について語る時には独特の鋭さを帯びていたわけですから。
私はこの八年の間に、Nさんがどのような思いを抱え、どのような出会いを通じて、彼の言葉でいう「沖縄人」の立場に深々とコミットするようになったのかを想像せずにはいられませんでした。内地とはまったく異なる生活風土のなかで、周囲の住民たちの信用を勝ち取るのには、並々ならぬ覚悟と努力が必要だったことでしょう。実際、先にも述べたように、沖縄の市民運動の現場において、Nさんの名前は広く知られるところとなっていたのです。
私はゆっくりとアクセルに足の重みをかぶせながら、別れ際のNさんが、少しだけ照れたようにはにかむ姿を思い出しました。ちょっと俺、しゃべりすぎましたかね?…… 申し訳ない…… とにかく、岩真さんがいま一番考えなくちゃいけないのは、奥さんの状態ですよね。出産後はマタニティー・ブルーも始まるだろうから、周囲にいるひとが支えてあげないと。俺が大した力になれるかどうか分かりませんが、なにかあればいつでも声をかけてください。そんなふうに言葉を残すと、おそらく活動のために使っているのでしょうか、ギッタン、バッタンと大仰な音をたてる自転車を漕ぎながら、Nさんは新都心のビルの谷間に消えていったのでした。彼が残した言葉は、奇しくも私たち夫婦の関係の悪化を予告するものでもあったのですが……
――それにしても、ヌチドゥタカラとはどういう意味の言葉なのだろう?
ハンドルを操作する私の自問は、おのずとそこに集中していきました。助手席で押し黙っていた妻も、どうやらこの点に関しては私と同じだったようで、どちらからともなく口を突いて出てきたのは、やはりヌチドゥタカラのことでした。
私は、自分がおそらくNさんの想定しているような、日本と沖縄の歴史に無自覚な「内地人」のひとりに含まれているにちがいない、と感想を述べました。すると妻から返ってきたのは、おおむね次のような話でした。実際には、言葉がぽろぽろと器の外にこぼれ落ちるような仕方でしゃべっていたので、あくまでも私なりの再構成を施したものに過ぎないのですが……
実は、あなたの義父さんの家のご近所に住むひとたちと、少しばかりお話しする機会があったのよ。そのときに一度、ヌチドゥタカラが話題にのぼって、そこにいたひとたちが「ウチナンチュウにとっては、たいせつな言葉よー」って、口々に言ってたわ。それ以上のことは、こちらから問いただしても、話してくれなかったのだけれど。
妻はなんとなく気になったので、村の図書館に立ち寄ったときにキーワード検索をかけてみたのだといいます。すると検索ページの一番上にヒットしたのは、あの有名な画家、丸木位里と丸木俊の夫妻による沖縄戦の記録絵本だったそうです。子どもの頃に読んだヒロシマに関する夫妻の絵本が印象に残っていたこともあって、彼女はその絵本をめくってみることにしたのでした。
――主人公はたしか、つるちゃんという女の子だったと思うけれど……
妻が語りなおしたのは、7歳になったつるちゃんの家が、次第に日本とアメリカの戦争に巻き込まれていく物語でした。
つるちゃんのお父さんは、中国に出征。お母さんも、お祖母さんも、軍隊で手伝い。そうこうするうちにアメリカ軍の空襲が始まり、沖縄はいつの間にか大量の軍艦で包囲されてしまいます。
海からも空からも嵐のように襲ってくる集中砲火。つるちゃんの家族が逃げこんだガマは、大きな音をたてて崩落します。ガマから這いだすつるちゃんたち。子どもをおんぶして逃げるどこかのお母さんたち。竹槍をかついで走りだす看護婦さんたち。サンゴ礁のごつごつした岩のおかげで、足を血だらけにして逃げまどうたくさんの人たち。そのうえにも、アメリカ軍の砲弾は雨あられと降り注いできます。
つるちゃんの家族はやっとの思いで、「亀の背中の形をした墓」に逃げこむのですが、後からやってきた日本兵たちに「出ろ! 出ないと殺すぞ!」と脅されて、やむなくもう一度、降り注ぐ弾幕のまっただなかに飛びだすことになるのです。こんなふうに沖縄の各地で、日本兵の手でガマから追い出されたり、その場で切り殺されたり、さらには絶望のあまり、自分自身の手で子どもの命を絶ったりしたウチナンチュウがたくさんいたということです。
必死に逃げつづけるつるちゃん、お母さん、お祖母さん…… けれど、とうとうお祖母さんの体に、ぽかりと弾丸の「穴ぼこ」が空けられます。つづいてお母さんも「あっ!」と声をあげると、地面にたおれこんでしまいます。辺りで炸裂した焼夷弾の明かりで、お母さんの傷だらけの体が映しだされます。
もうだめ。自分は助からない。せめて子どもたちだけでも、生きのびてほしい。そんな思いを込めて、絶命寸前のお母さんの口からひとつの言葉がしぼりだされることになります。
――ワラビンチャー、ヒンギリヨー(こどもたち、逃げなさい)。ヌチドゥタカラ(いのちこそたから)。
原発震災の後、母親が暮らす沖縄に妻と子を逃がし、宇都宮でひとり暮らしをはじめた著者の「右往左往」を描くコラム、久しぶりの更新となりました。
家族に会うために久しぶりに沖縄を訪れた著者が目を向けることになった、この地の過去と現在。沖縄人ではなく、かといって観光客ともいえない…その立ち位置が、著者の思いをさらに複雑なものにしているのかもしれません。