原発震災後の半難民生活

3)


 あの日以来、子どもを持つ内地の友人たちのことを考えて、胸が痛んで仕方がなかった。Nさんはそう続けました。

 けれども、だからといって、「そこは危険だから逃げろ」などという気分にもなれなかった…… 彼らがそれぞれの場所で、それぞれの事情を抱えていることは痛いほど分かるので、結局は胸のざわつきを押し殺しながら、遠くから黙って見ていることしかできなかった……

 Nさんは静かに付け加えました。「岩真さんが家族を沖縄に連れてきたことは、俺も本当に良かったなと思うんです。いつか、娘さんもしみじみとパパに感謝する日が来るんじゃないですか」。

 ちょうどNさんがここまで話した時でした。おやっ、と思うことがふたつ、ほぼ立て続けに起こりました。

 ひとつめは、Kの行動でした。私の横で神妙な顔をして座っていたKが、何を思ったのか、Nさんのすぐそばまで駆け寄っていって、人差し指でツンツンと彼の背中をつつきはじめたのです。Nさんは虚を突かれたような顔をしましたが、すぐに相好を崩して、Kの頭をそっとなでてくれました。通常なら極度に他人を警戒する気難しいKですが、どうやらNさんには心を開いた様子でした。

 もしかしたら、自分のことが話題にされていることに敏感に反応したのだろうか?――私はそう自問してみましたが、娘のなかでどんな気持ちの流れが生じていたのかについては、分からずじまいでした。

 もうひとつ記憶に残っているのは、妻がこの時にとった態度でした。彼女は急にNさんに向かって、放射能による健康被害について矢継ぎ早に質問しはじめたのです。私がそのことを話題にしようとするたびに会話を拒絶していただけに、この態度はなおさら驚きでした。妻がNさんにした質問の内容は、今はもう記憶の彼方に消え失せてしまっています。ただひとこと、私のほうをアゴでしゃくって、こう締め括ったことだけは覚えています。

 ――この人が、いやというほど情報をかき集めてくるんです。でも、本当に信用できるのかどうか、よく分からなくて……

 ――唯一絶対の正解は、ないんじゃないでしょうか?

 Nさんは即座にそう答えました。そして一瞬だけ、躊躇の表情を見せたうえで、すぐに意を決したように話しはじめたのです。

 実は自分も東京の実家に、高齢の母と、障害を持つ兄とを残して来ている。「首都東京」などというけれど、ご存じのように福島原発からの距離は、たかだか二百キロ強にすぎない。自分としては、その東京もいずれは、河川や水道を通して汚染の拡散が進むのではないかと思っている。

 こうやってつらつらと考えれば考えるほど、母と兄を沖縄に呼び寄せたいという気持ちを押さえられなくなってくる。ところが、自分ひとりの身でさえ覚束ないほどの今の収入では、どうしようもないということも疑う余地がない。もし、次なる大災害が東京で起きたとき、家族はどうなってしまうのだろうか? こういう思いが、胸のなかでずっと引っかかりつづけている。東北や福島で暮らす友人たちのことを考えると、このような思いを巡らせる自分に、時として自責の念を感じるのだけれども……

 当時の会話の状況を思い出しながら、この文章を書き起こしている今、私のまぶたにはNさんの逡巡する表情が、はっきりと浮かんでくるのです。ところで、そのNさんから短いメールがしばらくぶりに届いたのは、去年の秋のことでした。

 ――岩真さん、お久しぶりです。/突然ですが、家族の介護のため、東京に戻ることになりました。/もしよければ、今度は内地でお目にかかりましょう。/Nより。

 八年ぶりに那覇で再会してから、はやくも二年以上の歳月が経っていました。

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4章:ゴールデン・ウィーク――沖縄にて その3「ヌチドゥタカラは誰の言葉か?」」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    原発震災の後、母親が暮らす沖縄に妻と子を逃がし、宇都宮でひとり暮らしをはじめた著者の「右往左往」を描くコラム、久しぶりの更新となりました。
    家族に会うために久しぶりに沖縄を訪れた著者が目を向けることになった、この地の過去と現在。沖縄人ではなく、かといって観光客ともいえない…その立ち位置が、著者の思いをさらに複雑なものにしているのかもしれません。

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