原発震災後の半難民生活

2)


 ――こういう言い方をしていいのかどうか、俺にもよく分からないんですが…… 

 こんなふうに前置きしたうえでNさんが語ったのは、以下のような内容だったと記憶しています。

 何よりもまず、自分にとってあの原発事故は、ずっと以前から「想定内」だったこと。そもそも八年前、東京から沖縄に移住することを決めた最大の理由は、浜岡原発の事故を恐れていたためであること。そしてそれは、将来的に起こりうる首都圏での大きな地震を危惧しての決断だったこと。

 Nさんの説明に接しているうちに、私のなかでひとつの記憶の輪郭が浮かびあがってきました。

 この連載の第1章でも触れたように、まだ東京に住んでいたころ、Nさんは何度かにわたって、原発に関するレクチャーを披露してくれたことがありました。原発の過酷事故は、どのように引き起こされるのか。それによって、どのような汚染状況がもたらされるのか。その汚染に対して、どんな対策をとればよいのか。当時、高木仁三郎にちなんで創立された市民学校の講座に足しげく通っていたNさんは、これらのトピックをわざわざレポートにまとめて、友人たちに配布してくれたのです。

 残念ながら、その時のレポートが手元に見当たらないので、内容を具体的に確かめることはできません。私としても当時から驚きをもってNさんのレポートを受け止めてはいましたが、だからといってみずから率先して勉強してみようとしたわけではありませんでした。けれど、原発事故の後にあちこちから湧き出てきた「専門家たち」の言葉に納得がいかず、自分の手でリサーチを進めるようになった今となっては、私にもいくつか思い当たることがあるのです。たとえば、Nさんが沖縄への移住を決断した背景には、高名な地震学者、石橋克彦教授の研究があったのではないだろうか、といったように。

 石橋教授が『科学』1997年10月号に公表した論文「原発震災 破滅を避けるために」は、福島第一原発事故が起きて以降、ネットを介して広範に拡散されたものでした。教授がそこで論じていたのは、もしも東海地方で直下型の大地震が起きた場合、どれほどの巨大な危機が浜岡原発を襲うことになるのかという「最悪のシナリオ」についてでした。私は授業準備で読み返すたびに痛感するのですが、この研究では、福島の事故の過程で起きた出来事のすべてが、ほぼ完璧なまでに予言しつくされていました。

 私はためしに、石橋教授の名前を口にしてみました。はたしてNさんは、「たしかにあの論文は決定的でした」とつぶやいたうえで、ぽつぽつと言葉を継ぎ足していきました。

 もともと自分にとって、ひたすら虚飾の積み木を積み上げていくような「東京」という空間は、どうしても馴染むことができなかった。ほんとうに教授が想定しているように、大地震の到来が避けられないのであれば、一足先に活動の拠点を移し、自分なりにもう一度、生き方を見つめ直してみてもいいかもしれない。そんな切迫した気持ちで沖縄に移り住んだのが、八年前のことだった……

 それまで黙って聴いていた妻が、隣りで露骨に不快なそぶりを見せはじめました。私はその妻をさえぎりながら答えました。Nさんのレポートを拝読した当時、僕が今回のような事故を実感的に思い描けていたかといえば、そんなことはまったくありませんでした。Nさんには、先見の明があったのだと思います。

 すると、Nさんの穏やかな顔に、意外にもかすかな苛立ちが立ちのぼりました。彼は小さくかぶりを振りました。

 ――いや、そうじゃなくて…… 現実に事故が起きてみると、俺はとにかく動揺するばかりで、しばらく何もできなくなってしまったんです。

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4章:ゴールデン・ウィーク――沖縄にて その3「ヌチドゥタカラは誰の言葉か?」」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    原発震災の後、母親が暮らす沖縄に妻と子を逃がし、宇都宮でひとり暮らしをはじめた著者の「右往左往」を描くコラム、久しぶりの更新となりました。
    家族に会うために久しぶりに沖縄を訪れた著者が目を向けることになった、この地の過去と現在。沖縄人ではなく、かといって観光客ともいえない…その立ち位置が、著者の思いをさらに複雑なものにしているのかもしれません。

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