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――へえ、「Yナンバー」だね!
これが、久々に再会したNさんの第一声でした。よほど驚いたのか、Nさんは目を丸くして私たちの車を見つめていました。
――実は、うちの母の再婚相手がアメリカ人で、米軍基地で働いているんです。今日は彼の車を借りてきたものですから。
Nさんは私の返答にうなずいてから、静かに微笑みました。
――おひさしぶり。岩真さんとはもう、かれこれ八年ぶり、ですかね。
なるほど、言われてみればそのとおりでした。最後に東京の国分寺でお会いしてから、あっという間に八年の歳月が過ぎていたのです。ただ、沖縄の強い日差しでこんがりと焼けてはいても、心持ちはにかむようなNさんの微笑は、なにひとつ変わっていませんでした。
那覇の新都心は、宇都宮で暮らしてきた者の感覚からすると、とても五月の気候とは思えないほどの蒸し暑さでした。アスファルトの照り返しが激しかったので、私はむずかるKをなかば強引に抱きかかえると、先を行くNさんを追いかけました。妻は大きく膨れあがったお腹をさすりながら、よちよちと私たちの数歩後をついてきます。Nさんが連れていってくれたのは、テビチの料理で有名な食堂でした。
食堂はたくさんの客でごったがえしていました。私たちは座敷の一番奥のテーブルに案内されました。テビチの定食が来るのを待つ間、私は手短にこれまでの経緯をNさんに伝えました。
ご覧のように、妻が妊娠九か月にさしかかっていること。原発事故の後、万が一を考えて、宇都宮から家族を連れだしたこと。避難途中の国道で、何台もの軍用ジープとすれちがい、頭のなかを「戦時中」という言葉がよぎったこと。やっとたどり着いた空港は、関東圏から避難しようとする人たちで溢れかえっていたこと。沖縄に転がりこんで少ししてから、義父が所属している在日米軍基地のメーリングリストに、関東在住の兵士たちの家族に避難を許可する軍司令部の通知が届いたこと。
Nさんは黙って耳を傾けていましたが、しばらくすると、まるで言葉のかけらをひとつずつ拾い集めるかのように訥々と話しはじめるのでした。
原発震災の後、母親が暮らす沖縄に妻と子を逃がし、宇都宮でひとり暮らしをはじめた著者の「右往左往」を描くコラム、久しぶりの更新となりました。
家族に会うために久しぶりに沖縄を訪れた著者が目を向けることになった、この地の過去と現在。沖縄人ではなく、かといって観光客ともいえない…その立ち位置が、著者の思いをさらに複雑なものにしているのかもしれません。