1)
自宅のドアを開けたときの寒々しい光景を忘れることができません。
家のなかはがらんと静まり返って、もう4月だというのにひんやりとした空気が立ちこめていました。私はひさびさの自宅の雰囲気に気圧されてしまいました。靴を脱いでなかにあがると、床を踏みしめる足の裏からひりつくような寒気が立ちのぼってきました。
――いったい、どうしたことだろう?……
特に何かが無くなったわけでもなければ、物の配置が変わったわけでもないのです。洗面台、小物入れの棚、洗濯機、洗濯物用のかご、古新聞の束…… これらの見慣れた物たちは、もともとあった場所にひっそりとおさまっていました。少なくとも外見的には、私が家族を連れてこの家を飛びだす前と何ひとつ変わっていないはずでした。
それなのにどうもしっくり来ない…… そんな私の印象は、リビングに入ることでいっそう強まりました。食卓、椅子、テレビ、電話、本棚。どれもこれも元通りのはずなのに、「何かがちがう」と感じられてならないのです。たとえば長い長い旅の後で自宅に戻ってきたときに感じるあの疎外感、とでも言えばいいでしょうか…… ただ、そればかりでもなさそうでした。
私はなんとなく隣りの六畳部屋のほうに目をやりました。閉め切ったカーテンの向こうで夕陽の気配が漂いはじめていました。ふと畳の上に転がるピンク色の塊が目にとまりました。それは週末の朝、自転車で近くの川べりへ出かけるときに、娘の頭にかぶせていた幼児用ヘルメットでした。やわらかい黒髪をかきわけながらそのヘルメットを装着しようとすると、くすぐったそうに笑いだし、「これヤダ! とる!」と身をよじりはじめるのは、私と娘のKが週末の自転車置き場で交わすふたりだけの儀式でした。
私はヘルメットを拾いあげました。その感触を手のひらのなかで確かめているうちに、三年間、この家でいっしょに過ごした思い出の切れ端が次々に脳裏をかすめていきました。
改めて見渡してみると、室内は私たち家族の生活がKを中心にまわってきたことの証となるもので埋め尽くされていました。夜は必ず寝床に持ちこんできた熊のプーさん、茶色ウサギのウサコちゃん、そしてネズミのアキちゃん…… 夕食をつくる妻の傍らで、仕事から帰宅した私とふたりで飽くことなく積みあげては崩したスイス製の積み木…… 本棚のどこに立てておくかがきちんと決められていた三百冊の絵本たち…… ご機嫌になると、その時々のお気に入りの歌をうたいながら、小さな体に巻きつけていたタイ土産の大蛇の人形…… 壁一面を飾るのびのびとした何枚ものクレパスの絵……
この室内には、他愛もない記憶の数々が少しずつ時間をかけながら降り積もってきたのでした。目の前に無造作に転がる物たちは、今この瞬間もその痕跡をたたえているようでした。
ただひとつだけちがうのは、そこに娘と妻の気配が欠けていることでした。とりたててどうということもない日々を、ともに同じ場所で過ごすことでしか感じとれないような家族の温もりが、一か月近くの留守中に跡形もなく消え去っていたのです。
――そうだった…… 今日からここで、ひとりで暮らしていくんだった……
誰にともなくつぶやいたこの言葉が、思いのほかずしりと胸にのしかかってきました。私は自分がいまだに旅行バッグを肩にかけていたことに気づきました。急に虚脱感が襲ってきたので、私はその場に座りこみました。そしてヘルメットを膝のうえに乗せると、しばらく両手のなかで転がしていました。
2)
ただ、いつまでも感傷にふけっている場合ではありませんでした。明日は午前から授業なので、あれこれと準備をしておかなければなりません。それに、近所のQさん、Xさんのところに、沖縄土産を持って挨拶に行かなくてはなりませんでした。
昔から近所づきあいの苦手な私にとって、これはまったく気が進まないことでした。妻がとにかくお土産を持って行け、ちゃんと頭を下げて来いと執拗にせっつくので、那覇空港の土産物広場で、紅芋タルトと泡盛の小瓶をそれぞれ二点ずつ買い求めたのです。
壁に吊るした時計の針は、5時10分あたりを指していました。私は時計を見つめながら、ぼんやりとこんなことを考えていました。
――そろそろ夕食前だから、買い物を終えた子持ちの主婦たちは、台所に立って料理をつくりはじめる頃だろう。いまこの土産物を持っていけば、その場ですぐに手渡すことができるはず……
私は重い腰をあげると、いったん便所で用を足したうえで、洗面台の前に立って花粉用の簡易マスクを着けてみました。鏡に映しだされたその姿は我ながら間抜けに見えて、おのずと苦笑がもれてきました。よほどの大風邪をひいた時でもなければ、マスクを着けたことなどなかったからです。けれど、例の在日米軍基地から義父のアドレスに送信されてきたメールの一文は、どう振り払おうとしても頭にこびりついて離れませんでした。
――関東一円に住む米軍兵士の家族は、アメリカ本国に帰宅してよい……
どれほどの効果があるのかは分からないにしても、放射能の吸引を避けるためには、マスクだけでも着けておいたほうが幾分かはマシだろう。そう私は考えたのでした。
私は両手に土産物の袋をひっさげた格好で、玄関の外に出ました。そのまま同じ建物の一番上に住むQさんの家を訪ねようとして、踊り場から階段に足をかけたその時でした。
突然、築四十年の建物が、悪寒にでも襲われたかのようにガタガタと音をたてて震えはじめました。私はとっさに手すりに体を寄せました。一か月ぶりに味わうかなり規模の大きな地震…… 反射的に階下を見下ろすと、吹き抜けの向こうに横たわる駐車場の路面が、小刻みに痙攣しつづけていました。
「ずいぶん長いな」と私は内心でひとりごちました。実際、揺れはなかなかおさまってくれませんでした。それも単に横揺ればかりではなく、ふとした拍子に斜め方向への震動が畳みかけるように襲ってくるのです。足元から少しずつ平衡が切り崩されていくような気がして、私はますます手すりに体を預けるほかありませんでした。
――宇都宮でこれだけの揺れだとすると、福島の原発は大丈夫なのだろうか?……
これはその後も何度となく自問することになる問いでした。こめかみにうっすらと汗がにじんでくるのが、自分でもはっきりと分かりました。
帰宅後すぐにテレビをつけて確認したところでは、その夕方の地震は福島県浜通りを震源とするもので、マグニチュード7.0、最大震度6弱を記録したということでした。自宅前の階段で感じたあのいやな予感がはからずも的中したようで、なんとも居心地の悪い気分にさせられたものでした。男性アナウンサーの抑揚を欠いた声が、ブラウン管の向こうでけだるそうに流れていました。
この地震による津波の恐れはないということです…… くりかえします。この地震による津波の恐れはないということです……
***
この日、つまり4月11日の夕方、ひととおり揺れが過ぎ去った後で私が順番に訪れた二つの玄関先での出来事について書き留めておきましょう。どちらも客観的にはごく短時間の訪問だったろうと思います。でなければ、その後でテレビの地震速報を目にすることもなかったはずですから。それでも、この二つの場面が妙に私の記憶に刻まれているのは、両者の対照があまりに鮮明だったためでしょう。
まずQさん宅の前で、私はマスクを外してドアベルを鳴らしました。驚いた顔で出てきたQさんに、「留守中、ご心配をおかけしたそうで……」と頭を下げてから土産物を差しだしました。予想に反して、Qさんから返ってきたのは温かい言葉でした。
「お子さんを逃がしたのは正解でしたね。Kちゃんはまだ小さいし、赤ちゃんはきちんと守らないとね」
どうせ自治会費の支払いについてあれこれと小言を頂戴するのだろう…… そんな憂鬱な気分で赴いた私にとって、これは拍子抜けするというか、むしろびっくりしてしまうほど親切な応対でした。リビングからジャージ姿で出てきた小学生の女の子が、「岩間先生、Kちゃん元気?」と質問してきました。
一方、隣りの棟に住むXさん宅では全く様子が異なっていました。ドアを開けたXさんは、「あらまあ、たいへんなことでしたね」と急ににやにやした笑いを浮かべました。Kと同じ幼稚園に通いはじめた仲良しの女の子が、後ろから顔を突きだしてきて、じっとこちらの様子をうかがっていました。私が留守中のことを詫びて土産物を差しだすと、Xさんは「はいはい、どうもお世話様でした」とそっけない調子で受け取りました。どこがどうというわけでもないのですが、私は即座に切りあげるタイミングを逸して、何度も言葉を変えながら「ご迷惑をおかけして……」と頭を下げることになりました。その間、「はいはい」だの、「いえいえ」だのと機械的に繰り返されるXさんの相槌が、お辞儀する私の頭のうえに降り注いできました。
ようやく最後のお辞儀を終えてドアを閉めると、私は嘆息しながらマスクをつけました。「やはりこいつだったか……」と腸が煮えくり返るような思いでした。なるほど私たち家族が宇都宮から避難したことに関して、Qさんがまったく噂話に参加しなかったというわけではなかったかもしれません。そうでなければ、Qさん本人の口から、Kや赤ん坊の話題が飛びだすはずはありませんから。けれど、自治会費等のことでQさんが立腹しているというのは、どう見てもその話を妻に伝えたXさんの脚色のように思えてなりませんでした。なぜXさんがそんな話をしたのか、私にはまるで思い当たりませんでした。いずれにしろ、これを書いている現時点で分かっていることは、私たちとXさんの関係が修復しようのない所まで来てしまったということだけなのです。
挨拶を済ませて階段を降りはじめた瞬間、またしても建物が揺れているような気がしました。私はその場に立ち止まり、じっくりと揺れの質を見定めようとしました。ところがそうやって身構えてみると、果たして揺れているようでもあり、揺れていないようでもあり、どちらなのかが心もとない限りでした。「気のせいだろうか?……」と私はつぶやきました。
いつしか辺りは真っ暗になっていました。建物の吹き抜けから垣間見ることができる駐車場は、まるでそこだけ大きな空洞が開いたかのように黒々とした闇のなかに飲みこまれていて、何とはなしにそのなかに吸い込まれていきそうな、空恐ろしい気分にさせられました。
私はマスクの具合を確かめると、一息に階段を駆けおりました。
いよいよ沖縄と宇都宮との「右往左往」生活へ--。
妻と娘と離れ、自宅へと戻る選択をした著者が目にしたのは、
震災前の人間関係さえも、すでにもとのままではないという現実。
次回以降、宇都宮での「ひとり暮らし」がさらに綴られます。