原発震災後の半難民生活

6)


 刻一刻と、宇都宮に戻らなければならない日が迫ってきていました。

 W先生、S先生からの問題提起がきっかけになって、大学当局のなかでもひとしきり新学期の扱いをどうするかという議論が交わされたようなのですが、結局は平常通り、授業を開始することに落ち着いてしまったのです。放射能に関する国内外の情報を調べていけばいくほど、いきなり4月から新学期を始めるということが、私にはあまりにリスクが高いことのように思われてなりませんでした。

 とりわけ首都圏の私立大学のなかには、新年度の開始を遅らせると表明したところがいくつもありました。そんな動きを見るにつけ、どうして自分の職場ももっと柔軟な対応ができないのだろうかとヤキモキしたことを覚えています。

 こうして、これまでとは形の異なる苦々しい気分が、改めて私の頭のなかでとぐろを巻きはじめました。

――とにかく子どもを守りたい一心で、自分は取る物もとりあえずこの沖縄まで逃げてきた…… ところがそんな気持ちを抱いている人間が、かたや大学教員としては、まだ将来のある若い学生たちに対して、被曝の危険性のあるところに出てくることをヨシとしてしまってもいいのだろうか?

 これはしかし、どうあがいても堂々めぐりになることが目に見えている問いでした。実際、当局の決定が気に食わないからといって、「それなら、お前に仕事を辞するだけの覚悟があるか?」と問われれば、私としても「NO」と答えるしかありませんでした。定職を持たずに研究を続けていくことがどれほどしんどいかということは、一度でも同じ境遇に置かれたひとなら、誰もが身に染みて知っているはず…… およそ二〇件あまりの公募に落ちつづけてきた私にとって、やっとのことで三年前に拾ってくれたのが、いまの職場だったのです。

 加えて、「世間の常識」という卑近な観点から言っても、少なくとも私自身が沖縄に留まるべき理由はすでになくなっていました。それまでこつこつと貯めてきた有給休暇は、今回の避難のおかげでほとんどなくなりかけていましたし、幸いなことに娘が通う保育園に関しては、無認可ではあるけれど良さそうなところを近くに見つけることができたからです。「いずれにしろ、いよいよタイムリミットということか……」そんな分かりきったことを独言しながら、私は再び憂鬱な気分に落ちこんでいきました。

7)


 周囲で起きたいくつかの出来事も、私のなかの不安を掻き立てるには十分すぎるほどでした。そのひとつひとつは、はたから見ればささいな事柄ばかりだったかもしれません。けれど、それなりにせっぱつまっていたこの時の私の目には、どれもこれもが一大事のように見えて仕方がなかったのです。

 私たちが沖縄県G村の義父の家に転がりこんでから三日後のことでした。夜中にとつぜん、娘がむずかりだしました。こちらも日中は動き回っているせいでくたびれていますから、そのうち眠ってくれるだろうくらいに思って放っておいたのですが、いつまでも泣き止む様子がないのです。私も妻もしぶしぶ起きあがり、娘のパジャマを脱がせてみると、その体中を発疹が覆いつくしているのでした。

 「カイーよお! カイーよお!」

 娘は眉間にしわを寄せ、始終身悶えしながら、手当たり次第にあちこちを掻きむしりました。初めは米粒大だったボツボツが、私たちの目の前でみるみるうちに赤黒く腫れあがっていきます。喉元から腰回りにかけて、皮膚の表面をのた打ちまわるかのような、何匹ものミミズの姿が浮かんできました。

 三歳のその日まで風邪ひとつ引いたことのない丈夫な娘でしたから、私たちは心底慌てたものでした。隣室から出てきた母によると、あいにく薬は切らしているそうで、しかもこの界隈にはコンビニひとつないらしいのです。

 「Kちゃんね。ほんのちょっとだけ、ガマンしよう! お父さん、今からカイーカイーを止めるオクスリ、買ってきてあげるよ。そのあいだ、Kちゃんもがんばって、待ってることができるかい?」

 娘はますます苦しそうな泣き声をあげるばかりでした。私は玄関を出て、即座に車に乗りこむと、隣町の24時間スーパー「マックス・ヴァリュ」まで猛スピードで飛ばしていきました。寝静まった国道の両脇には、こんもりとしたヤシの並木が不気味な蔭をつくりあげていて、その暗がりのなかを突き抜けるたびに、私の体の奥深くから禍々しい想像が込みあげてきました。

――万が一、Kの症状が被曝のせいだとしたら、どうすればいいだろう? 

 震災直後、私は娘からの強い求めに根負けして、彼女が何度かオトモダチの家に行くことを承諾してしまったのです。それに3月15日当日は、宇都宮から成田へ、成田から羽田への長時間の移動も経験していました。「その間に被曝した可能性は、決してゼロとは言えない……」

 吐き気とも眩暈ともつかぬ感覚に襲われながら、私はアクセルを踏みつづけました。ひとつひとつの呼吸が苦しくなり、ハンドルを握る手のひらから、あぶら汗がにじみでてきました。

 私はなんとか自分に言い聞かせようとしました。

――しかし、Kにはきちんと言い聞かせて、いつでもどこでもマスクをさせてきた……それに、あれこれ細かいことを考えだしたら、キリがなくなるだけだろう……妻が言うように、自分はやや神経質になりすぎているのかもしれない……

 実際、環境が変わると体調を崩すという話は、子どもにはよくあることでしょう。しかも、3月11日以来、両親の雰囲気が普段とは違ってピリピリしていたことで、娘のほうも大変な緊張を強いられてきたはずなのです。そのストレスが今回のように「発疹」という目に見える形になって現れただけ、と考えることは十分にできそうです。

 ただ、このように理屈づけしてみたところで、私の違和感がきれいに解消されてしまうわけではありませんでした。あたかもこの未消化な感覚を裏づけるかのように、数日後、米軍基地で働く義父のアドレスに、職員専用のメーリングリストから一通のメールが届いたのです。

“Hey! Come here, and read it !”
 (「おい! こっちへ来て、これを読んでみな!」)

 うわずった義父の声に駆り立てられるようにして、私はパソコンの画面に見入りました。

――関東一円に住む米軍兵士の家族は、アメリカ本国に帰国してよい。

 テレビにも、新聞にも、ネットにすら出てこないような、衝撃的な一文でした。やはり、まちがいない。いまこの瞬間も途方もない出来事が進行中であるのは、紛れもない現実だ! 私はそう確信したものでした。

 そればかりではありませんでした。4月に入ると、沖縄タイムズの紙面に「沖縄でもヨウ素検出」という小さな囲み記事が掲載されたのです。こうして私の確信はいや増しに増すことになりました。

――とうとう沖縄まで放射能がやって来た。日本中が汚染されてしまった。

 私は慄然とした思いにとらわれました。結局、日本で最も福島原発の事故現場から遠い沖縄でも、汚染を免れることはできなかったのです。今後はどこへどう逃げのびたところで、放射能の脅威は多かれ少なかれ付いてまわることでしょう。3月11日の原発震災からこのかた、完璧に被曝のリスクを避けられるような場所は、少なくともこの国には存在しなくなってしまいました。娘のKも、2か月後に生まれるはずの赤ん坊も、そして彼らから生まれてくるかもしれない私の孫たちも、そんな汚染された国土のなかで生きていかざるをえなくなったのです。

8)


 しかし、私の気分がふさぎがちになったのは、なにも放射能汚染のせいばかりではありませんでした。

 ある日のこと、宇都宮の「ご近所」のひとりXさんから、一通のメールが妻の携帯電話に送信されてきました。そのメールによると、最近、私たちと同じ建物に住む初老の夫人Qさんが、私たち一家が沖縄に逃れたことについて、あちこちで吹聴してまわっているとのことでした。

――いったいいつになったら、岩間さんのお宅はこちらにお戻りになるのかしら? 

 妻がそのメールをくれた知り合いに電話で確認したところでは、Qさんは、会うひとごとにそう触れ歩いている様子でした。

――ずいぶんと長いあいだ、ご自宅を留守にしていらっしゃるのよねえ。なんといっても、自治会費を納めていただかなくてはならないでしょう? それなのに、とつぜん家を出て行ったきり、ご連絡ひとついただけないというんじゃ、ちょっと困ってしまいますよねえ!

 確かに、私たちがほとんど誰にも挨拶をすまさずに宇都宮を去ったことは、隠れようもない事実でした。これは今にして思えば、明らかに私たちの失点でした。しかし、Qさんが指摘している自治会費の納入期限はまだ先のことであって、現時点でお金を納めていないことをとやかく言われる筋合いはありませんでした。

 私たちがいっそう落ちこんだのは、こうした近況を伝えてくれたXさん自身が、妻との電話の締めくくりに述べた次のような言葉でした。

――岩間さんたら、なんだかんだいって、けっこう周りのひとに迷惑かけてるみたいじゃない? 最低限の身の周りのことは、きちんとしておくのが当たり前だと思うんだけれど、いかがかしら? こんなこと言っちゃ元も子もないかもしれないけど、この近所で原発事故のことを気にしてるひとなんて、もう誰もいないのよネ……

 妻から伝え聞かされた限りでのその口ぶりは、底意地が悪くて、不愉快きわまりないものでした。私たちの沖縄避難が世間の目にはどう映るかということをちらつかせながら、いたずらに不安を逆なですることで快感を得ようとしている――私はそういう印象を受けたのです。

 もちろん、私のほうにも、どこかしら被害妄想は混じっていたのかもしれません。けれど、いったん上のように感じ始めてみると、実はQさんの話に関しても、Xさんの脚色が施されているのではないかという疑念を抑えるのは容易ではありませんでした。

 どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが作り話なのだろうか?――そんな確かめようもないことを私は自問したものでした。ご近所のひとたちが噂話に花を咲かせる宇都宮まで戻らなければならないという現実は、考えるだけでも気の滅入ることでした。

 そんな私の気分に感染されたかのように、妻がぼそりとつぶやきました。

 「どっちみち宇都宮に戻っても、わたしの居場所はなさそうだね……」

 「そんなことはないさ」と私が反射的に答えるのを遮るようにして、妻は激しく首を振りました。

 「放射能の値が大したことなくたって、友達だと思っていたひとたちからこんな言われ方をされたら、戻りたくても戻れないよ……」

 妻の両目から、堰を切ったように大粒の涙があふれだしました。

 「ぜんぶチャラになっちゃった…… 三年もかけて人間関係をつくってきたのに、今回のことで何もかもパーになっちゃったんだ……」

 とめどなくこぼれ落ちる涙を拭いもせず、妻はこちらまで居たたまれなくなるような、さびしげな顔をしてみせました。次の瞬間、妻の口をついて出たのは、思いも寄らない一言でした。

 「それもこれも、あんたのせいだよ!」

 不意打ちを食らった私は、頭のなかがまっしろになりました。妻はぷいッと目をそらすと、いまや8か月を迎えたお腹を大儀そうに抱えながら、畳の上に座りこみました。そして私には背中を向けたまま、黙々と洗濯物をたたみはじめるのでした。

 ちょうどこの時、母と義父は仕事に出ていて、すでに娘も朝から保育園に預けていたので、家にいるのは私たちと、カーテンの向こうでイビキをかく私の祖母だけでした。重苦しい沈黙の時間が、私たち夫婦を隔てる空気の膜のなかに流れこんできました。

 だいぶ後になってから知ったのですが、妻はこの頃から彼女の母や妹に対して、私がいかに無神経で、彼女の気持ちも考えずに沖縄に連れだしたかということを、繰り返しこぼしていたようなのです。そのことが家族や親戚の間に、消しがたいシコリを残すことになろうとは、この時の私には知る由もありませんでした。

9)


 結局、私が宇都宮に戻ることになったのは、4月11日のことでした。

 とにかく有給休暇も振替休暇もすっからかんになるまでここに留まろう――そう私は心に決めていました。どうせ本土に戻らなければならないのなら、少しでも福島の原子炉の状態が落ち着くのを見定めたいと思ったからです。手持ちの休暇日数をもとに計算してみたところ、奇しくも自分の授業が始まる4月12日の前日までは、ぎりぎり沖縄にいられるということが分かりました。その後の事故状況が「収束」とはほど遠い経過をたどりつづけてきたことを考えると、我ながらこんなに意地を張ってみたところで、さして意味もなかったのではないかと苦笑してしまうのですが……

 出発直前に起きたことのなかでは、何と言っても4月7日から翌8日にかけて相次いだニュースが鮮烈な記憶として残っています。

 7日の夜半は、なぜか頭が冴えて、なかなか眠りにつくことができませんでした。私は暗闇のなかで寝息を立てる妻と娘の上をまたぎながら、なんとはなしにテレビのスイッチをつけてみました。音量を下げたその画面には、折しも仙台市内の高層建築がぐらぐらと揺らぐ映像が大写しになっていました。アナウンサーが、無機質な声でつぶやいていました。

 地震速報です…… さきほど、宮城県沖を震源とするマグニチュード7.2、最大震度6強の強い地震が東北各地で観測されました…… 気象庁によると、この地震は、3月11日の東日本大震災の「最大余震」と推定されるということです…… 

 こうした前置きに続いて、六ヶ所村、東通、大間、女川など、東北一帯に散らばる原子力発電所や核廃棄物処理施設が次々に緊急停止したこと、さらには一時、いくつかの原発で冷却装置の電源が喪失されたことなどが淡々と報告されていきました。

 あの福島原発事故の悪夢を彷彿とさせるような事態が進行中でした。いつしか薄らぎかけていた地震への恐怖が、一気に記憶の底からせりあがってきました。私は絶望的な気分とともに自分に問いかけていました。「この先、どこかで大きな地震が起きるたびに、原発事故の可能性に怯えつづけなければならないのだろうか……」

 まるで私の不安に追い討ちをかけるかのように、翌日の夜になると、今度は「福島第一原発1号機の格納容器内で、毎時100シーベルトを記録……」というネット上の書きこみがあちこちに拡散されはじめました。検索等で調べてみると、これは人体に当たればまちがいなく即死するレベルの放射線量だということでした。それに私の記憶が正しければ、すでに4月6日の時点で、不穏な状態にある原子炉のなかに、非常手段として窒素注入が開始されたという報道も流れていたはずです。いずれにしろ、事態が好転しているとはとうてい言いがたい状況を目の当たりにする日々は、私にとって苦痛以外の何物でもありませんでした。大げさでも何でもなく、職場のメーリングリストを通して、被曝のリスクを訴えるために奮闘するW先生とS先生の姿が随時伝わってこなければ、私はとっくの昔に意気阻喪していたことでしょう。

******

 「オトーサン、フクシマダイイチゲンパツ、まだまだ、こわい? こんど、いつオキナワにくる?」

 出発の日、那覇空港のロビーで私の顔を見上げた娘の表情は、真剣そのものでした。大人たちの会話のやりとりから、いつの間にか「フクシマダイイチゲンパツ」の名前を覚えてしまったのでしょう。私は苦笑いしながら膝を折り、「そうだね、今度はいつになるかな」と娘の顔をのぞきこみました。切れ長の目。漆のようにまっくろな瞳。細くて長いまつ毛。そのひとつひとつを私の記憶のなかに刻みつけておきたかったのです。首から腰にかけて出ていたあのミミズ腫れは、今ではきれいに跡形もなく消えていました。私の両手に包みこんだ娘の頬が、ほのかな温もりを伝えてきました。

 「いつになるだろうね。できれば五月のゴールデンウィークには、またKちゃんに会いに来たいな」

 ゴールデン、ウィーク…… その言葉が意味するところを推し測ろうとするように、娘は私の目を見つめ返しながらつぶやきました。その時、ふと前触れもなく、私の胸のなかを暗い予感がかすめていきました。――ひょっとして、これがKを見る最後になるのではないだろうか?……

 ばかげた妄想と言えばそれだけのことです。けれどこの無根拠な予感は、その後も何度となく不意に襲ってきては、私を繰り返し悩ましつづけることになりました。これで最後なのではないか?…… 今回こそは本当に最後なのではないか?…… やや時が経ってみれば、こんなものは笑ってすませられるのですが、それでも空港でお別れの抱擁を娘と交わす際には、決まってこのとりとめのない感情がもたげてきて、執拗に私の胸を締めつけるのでした。

 搭乗口に向かう直前、私はもう一度だけふりかえって、大きく手を振る妻とKの姿をまぶたに焼きつけました。この時ばかりは、妻も精一杯の笑みを私に投げ返そうとしているようでした。

 日はまだのぼり切ってはいませんでした。ゲート近くで淀んでいた人いきれが、生ぬるい空気の流れに乗って、かすかに匂いたちました。

 

  

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2章:四月、宇都宮に戻るまで(3月16日~4月) その4「宇都宮へ」
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    雨宮処凛さんも今回のコラムで、
    福島県の中で生まれつつある「分断」について書いています。
    県内だけではなく至るところで、
    原発や放射能の存在が人と人との関係を歪め、引き裂いている…。
    これは、決して「ある特別な一家の物語」ではないのです。

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