原発震災後の半難民生活

4)


 原発事故、沖縄の米軍基地、祖母の戦時体験――三つの異なる事柄が、私のなかで一気に重なりあうことになりました。

 私はそのいずれに関しても、一定の知識を持つことができる立場にいたはずでした。

 先にも書いたように、原発については高校時代のO先生の薫陶がありましたし、在沖米軍基地については、そこで働く義父や母たちの話を通して、ある程度の内情を知ることが十分に可能でした。それに、祖母の思い出話にいたっては、幼少期から何度となく語り聞かされてきた内容だったのです。

 今にして思えば、私はどの問題についても、自分とは無縁の浮世離れした物語としてしか受け止めてこなかったのだと言えそうです。けれど、娘や赤ん坊を少しでも被曝のリスクから遠ざけたい一心で逃げて来てみると、少女たちが日頃から道端で米軍兵にいたずらされている沖縄の現状も、私の祖母が戦時中に亡くした子どもの記憶を背負いつづけてきた事実も、とても他人事とは思えなくなっている自分に気づいたのです。

 ――要するに昔から今まで、この国はずっと「戦時中」だったのではないか?

 そんな唐突な疑問が、私のなかに湧きだしてきました。これまで戦争の問題を突き詰めて考えたことのない私が、いまさらそんな疑問を持ったところで、思いつきの域を出ないものであったことは言うまでもありません。実際、とりわけ沖縄の基地問題については、後で調べていけばいくほど、どれほど自分が無知であったかを痛烈に思い知らされることになりましたから。

 それでも、「戦争」という言葉に宿る意味が、以前よりも生々しい実在感をもって、私の頭のなかでとぐろを巻くことになったのは、まちがいのないことでした。

 私はほとんどはっきりした筋道も立たぬまま、次のように考えたことを覚えています。

 ――この国はずっと「戦時中」だった……それも、多くのひとがあずかり知らないところで……少なくとも、一部のひとが気づいても知らんぷりを決めこむその傍らで、血なまぐさい暴力の記憶が、この国の根底に流れつづけてきたのではないか?……そして、もしその通りなのだとすれば、その見えない「戦争」は、これからも果てしなくつづいていくのではないだろうか?……

 形のはっきりしない、あいまいな夢想。そう言ってしまえば、それまでのことかもしれません。ただ、原発事故をきっかけとして、私が偶然にも直面することになった一連の出来事は、そんな不吉な予感を抱くには十分すぎるほど衝撃的なものばかりでした。

5)


 ――ねえ、ほんとのほんとに、宇都宮は危険なのかしら? あなたは何かというとパソコンで検索ばかりしてるけど、ネットの情報が正しいとは限らないでしょ? あたしの知りあいは、「みんな普段通りに生活してるよ」ってメールをくれたのよ。たくさんの情報に振りまわされて、ヒステリックになってるということはないの? 誰かが放射能のせいで死んだなんてニュースは、ぜんぜん聞かないじゃない!

 妻はほぼ毎日のようにこう問いかけてきました。くりかえし正面から疑問を突きつけられてみると、例によって私の考えもすぐにぐらつきかけるのでした。

 それでも、自分ひとりだけがとらえどころのない不安に駆られているわけではない――そんな実感を持てたことがふたつありました。

 まず、私たちと同じように、本土から逃げてきた家族たちに出会えたこと。

 私が宇都宮に戻ることになった四月初旬までの期間に、偶然、街中でめぐりあっただけでも実に四つの家族が、沖縄県G村に避難してきていました。いずれも子連れで、埼玉、千葉、東京など首都圏から脱出してきた家族ばかりでした。なかには、夫は仕事があるので関東に留まり、子どもと二人だけで民宿に逗留している、と打ち明けてくれた女性もいました。

 いずれにせよ、彼らが異口同音に語ったのは、「なんだかよくは分からないけれど、やっぱり今回の事故は尋常ではないし、誰がなんといおうと怖いものは怖い」という一点に尽きていたと思います。もちろん、こうした事柄を、出会ったその時から腹を割って話しあえたわけではありません。お互いの口ぶりや様子を見ながら、どちらからともなく遠慮がちに切り出すというのがほとんどでした。事故現場から遠く離れた場所でもそんなふうに気を使わなくてはならないことに、私はある種の理不尽さを感じもしたのですが。

 もうひとつ、現状に危機感を覚えているのが私だけではないということを、はっきりと教えてくれた出来事がありました。それは、職場のメーリングリスト上で起きました。

 私が全く支障なく職場のサーバーにアクセスできるようになったのは、沖縄に来てからのことでした。メーリングリストでは、震災の二、三日後あたりから、教員や学生たちの安否を尋ねるメールが飛び交いはじめ、キャンパス内の被災状況に関する報告が時々刻々と配信されていました。

 研究室棟の壁に2メートルあまりの亀裂が入ったこと。建物のあちこちに同じようなひび割れが存在すること。万一の場合を考えて、当面の間はエレベーターを停止せざるをえないこと。ガス漏れが相次いでいるため、各研究室のガスの元栓を閉めておく必要があること。「計画停電」の実施に伴い、当地区でもこれこれの時間帯に停電になる可能性があるので、実験器具や冷蔵庫などの取り扱いには十分に注意すべきこと……

 こうした事務連絡の合間には、どうやら欧米をはじめとする各国の大使館が、日本に派遣した留学生たちの帰国措置を取っているようだとの伝聞情報も流れてきていて、日本の内と外とでは、すでに原発事故をめぐる危機意識の持ち方に雲泥の差があるということがうかがえたりもしました。

 そんななかで、すみやかに災害対策緊急本部が設置され、具体的な施策が着実に打ちだされていきました。後にネットで他大学の状況をチェックした限りの印象ですが、私の職場はそれなりに的確な対応を講じていたのではないかと思います。特に甚大な津波被害をこうむった東北各県出身の学生とその家族への支援は、きわめて迅速に進められましたし、内容的に見ても手厚いものだったように思うのです。

 一点だけ、私が疑問に感じたのは、被曝のリスクに関する視点がすっぽりと抜け落ちていることでした。これだけ大量の放射能をまき散らすというのは前代未聞のことですから、そんな出来事を前にしてひとが絶句してしまうのだとしても、それは致し方のないことかもしれません。

 ところが実際に起きたのは、それとはまったく逆のことでした。

 3月17日、ある研究者のメールが、全教職員宛てに配信されてきました。そのメールを読み進めながら感じた苦々しい気分は、まるで昨日のことのように私の心に刻まれています。

 この研究者は、文科省の放射線モニタリングデータ、栃木県の環境放射能調査結果、日本アイソトープ協会の放射線関連文献などを参考にしながら、「宇都宮は安全である」と断言していました。それらのデータを検証する能力が、避難当時の私にあるわけではありませんでした。けれど、我が子を逃がすことに全力を注いだ父親の眼には、彼が述べていることは、たかだか「国や県が安全だと言っているのだから安全である」というだけの、薄っぺらな内容にしか見えなかったのです。しかもその小論は、ほとんどなんの検証も経ることなく、いきなり職場のサイト上で公開されることにもなりました。

 ――未曽有の大事故が起きてから、まだ数日も経っていないというのに、なぜこんなに早々と断言してしまえるのだろうか?……

 まるで時流に乗り遅れることを恐れるかのようなその性急さを前にして、私はほとんど絶望的な気分に捕らえられたものでした。学問にたずさわる人間が、国の言うことをただオウムのようにくりかえしている。そんな目をそむけたくなる恥ずかしい現状が、ほかならぬ自分の職場で起きてしまった……

 しかし、ともすればマイナス志向に陥りがちな私の気分を、一掃するような出来事が持ちあがりました。ふたりの教員が、間髪入れずに立ちあがったからです。ひとりはすでにこの手記にも登場したW先生。そしてもうひとりは、日頃から研究者としても、教員としても、堅実な仕事を積みあげてこられたS先生でした。

 二人が展開された主張は、次のように要約することができると思います。

 ――宇都宮の放射能のレベルが、今のところ大騒ぎするほどのものではないということは、たしかにその通りだろうと考えられる。ただ政府発表からもうかがえるように、いまだに原発事故が終息したわけではないということもはっきりしている。そして、事故の先行きに関しては今後とも予断を許さないのだから、学問の府としての発言には、十分に慎重を期したほうがよいのではないだろうか? 欧米諸国では、被曝の危険性を指摘する報道が大勢を占めており、なかには傾聴に値する情報も数多く含まれている。一方、日本国内ではこうした情報がほとんど報道されておらず、そのようなメディアの現状は大いに疑問の余地があると言わざるをえない。特に気がかりなのは、一般に、放射能が乳幼児や妊産婦に影響を及ぼしやすいとみなされている点である。そこで、非常時にはリスクをできる限り回避するという予防原則に基づいて、学生たちに自宅待機を呼びかけ、乳幼児を抱える教職員に一時避難を認めるなどの柔軟な措置を取ってみてもよいのではないだろうか……

 二人の主張は、ML上で飛び交う議論のなかでも、ひときわ輝きを放っていました。どこまでも懇篤に説得の言葉を積みあげようとするその姿勢に、私は深い感銘を受けたものでした。この先どうするかをひとりで悶々と思案していた私の意識が、大きく職場のある宇都宮へと引き戻されることになりました。

 とはいえ、私のなかで気持ちの変化が生じたことの背景には、二人の先生が、私と同じように幼い子どもを抱えているという事情も働いていたように思います。私たち一家が宇都宮から逃げるきっかけを作ってくれたのが、W先生であったことはすでに述べたとおりですが、実はS先生も同じ3月15日に、子どもを守るために別のルートから脱出をはかっていたことが後で分かったのです。

 そもそもS先生のパートナーのTさんは、放射線の遺伝的影響に関する研究の第一人者、市川定夫教授の授業を受けていたこともあって、今回の原発事故が起こるはるか以前から、被曝の危険性に関する専門的な知識を身に着けていました。だから、例の事故が起きた瞬間にS先生とTさんが逃げる準備を始めたことは、ごく自然な流れだったと言えるでしょう。

 ところが、折悪しくお子さんが高熱を出して、床に臥せってしまったというのです。やむをえず数日の間は家中を締め切って、屋内に閉じこもるほかなくなりました。ようやくお子さんの熱も引いて動けるようになったのが、まさに3月15日。S先生たちはすぐさま食糧や物資を車に詰めこみ、その日の午後には少しでも西の方を目指して、関東からの脱出をはかったのだそうです。

 冷静なTさんは、あらかじめ逃げるコースを頭のなかで練りあげていました。それは、地震のおかげで封鎖された東北道を避け、一般道で群馬まで出てから、北関東道に乗るルートでした。

 こうしてTさんの運転する車は、ひたすら西へ、西へと走りつづけました。けれど岐阜にさしかかったところで、あいにくの大雪に見舞われることになってしまいます。

 ――その晩は仕方がなかったからパーキングに駐車して、家族全員で毛布にくるまりながら、明け方が来るのを待つしかなかったのよ……

 S先生は笑いながら、そう語ってくれたものでした。そのパーキングには、同じように西へ落ちのびようとするひとたちの車が、何台も停まっていたと言います。

 S先生の一家が無事、関西に落ちのびたのは、あくる日の正午をまわってからのことだったそうです。

 

  

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2章:四月、宇都宮に戻るまで(3月16日~4月) その3「二人の先生」
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    過去の戦争、沖縄の基地問題、そして原発。
    「浮世離れした話」だったはずのことが、
    とても「他人事とは思えなく」なっていく。
    原発震災に追われての「半難民生活」は、
    著者のものの見方、考え方にも、大きな変化を与えていくことになります。
    「この国は、ずっと戦時中だったのではないか」――
    著者の脳裏に浮かんだというその疑問を、あなたはどう受け止めますか?

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