1)
2011年3月11日午後2時46分、震度6強の激しい地震が宇都宮の町を襲いました。かつて経験したこともないような巨大な揺れ。「地響き」とは、まさにこういうことを言うのでしょう。私はちょうど戸外にいたのですが、とても両足で立っていることができず、必死で民家の壁にしがみつくしかありませんでした。無数の送電線が、でたらめに振りまわされたナワトビの縄のようにブランブラン揺れていて、「途方もないことが起こった」と直感しました。
この大地震のおかげで、私の職場ではガス漏れや火災が相次ぎ、建物の壁にもあちこちにたくさんのヒビが入りました。ひどい所は鉄骨が剥きだしになり、手で触れただけでコンクリの粉がぱらぱらと崩れ落ちてくるありさまでした。このことを考えれば、私たち家族が住む築四十年のアパートにほとんど目立った被害がなかったことは、奇跡的だったと言えるかもしれません。
例えば、私の自宅はガスが止まり、本棚の蔵書が床に崩れ落ちただけでした。箪笥や食器棚は、転倒対策を施してあったので、びくともしませんでした。妻はしばらく昼寝を続けていたくらいですし、娘もちょうど幼稚園の送迎バスのなかにいたおかげで、怪我ひとつせずに済みました。それに何と言っても宇都宮は内陸の町なので、東北沿岸部のように凄まじい津波に呑み込まれることもなかったのです。
しかし原発の問題となると、話はまったく別です。万一、原発が爆発したりすれば、広島や長崎の原爆をはるかに上回る放射能汚染になるかもしれないということは、高校時代の社会科教員、O先生からよく聞かされていたことでした。この先生が授業でしゃべることは、天皇制、憲法9条、池子弾薬庫の不発弾、ゴルフ場の環境破壊、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ事故から見た日本の原発などなど、どれもこれも受験勉強のノルマから著しく外れたテーマばかりでしたが、それだけに今でも私のなかに鮮やかな記憶として残っています。そもそも彼から課されたレポートのために私が選んだ課題こそ、ほかならぬ「原発と原爆」のことでした。
これに加えて、私は大学院生の時に、高木学校の講座に通っていた友人Nさんから、原発の過酷事故が発生した場合に取るべき放射能対策について、何度かに渡るレクチャーを受けたことがありました。その内容の詳細に関してはほとんど忘れてしまったのですが、それでも、原発事故がいかに取り返しのつかない深刻な事態をもたらしうるかという戦慄の感覚は、私のなかに理屈以前の強い印象をもって刻まれることになりました。
3月11日の夜半にテレビを点けたときには、すでに「何かがおかしい」と感じていました。東北各地を襲う大津波の衝撃的な映像の合間に、福島原発で冷却装置の電源が喪失された、というニュースが流れていました。福島原発から宇都宮までは、直線にしてたかだか130kmほどの距離しかありません。いったん爆発が起きてしまえば、風向きの加減で、大量の放射能が宇都宮に飛んで来るということは、火を見るよりも明らかなことでした。
ただ、その時点では、ネットに思うようにアクセスできなかったことに加えて、たまたま原発関連の蔵書を研究室に置きっぱなしにしていたので、「冷却装置の電源喪失」が正確には何を意味するのかということを、きちんとこの目で確かめることができませんでした。私はそのことにイライラしながら、「これって、いつ爆発してもおかしくないってことだよね?」と妻に相槌を求めるほかなかったのです。
イヤな予感はあっさりと的中しました。翌12日午後3時36分、福島第一原発の1号機が爆発。このニュースを見て、私たちは自宅に閉じこもることにしました。私はできるかぎり外気が入って来ないように、窓の隙間にテープを貼りつけたり、段ボールを切り抜いて換気扇を覆ったりしたものでした。そしてこの作業に没頭しながら、くりかえし自分に言い聞かせていたのです――チャンスを見つけしだい、宇都宮を脱出しなければ……
しかし一口に「脱出」といっても、実際にはそう簡単なことではありません。そもそも、まだ3歳の小さな子供と、階段を昇り降りするだけでフーフー息をつく身重の妻を、いったいどこへ、どうやって逃がせばいいというのでしょうか?
それに、私たちの車には、ガソリンが半分しか残っていませんでした。市内のガソリンスタンドを探しまわったのですが、どこもかしこも「売り切れ」の貼り紙ばかり。しかも地震直後から数日の間は、高速道路が封鎖され、電車もまともに運行していなかったのです。JRの駅や高速バスの会社は、いつ電話してもつながらず、ようやく使えるようになったネットで検索をかけても、一番知りたい地元の情報はほとんど満足に得ることができませんでした。
要するに、どこを見渡しても八方塞がりで、動こうにも動きようがなかったのです。
それでも「とにかく逃げよう」とくりかえす私に対して、妻はいらだちを隠せない様子でした。最終的に脱出を決行した15日までの間に、いったい何度、押し問答になったか分かりません。
妻は近所の友人たちのことを例にとりながら言ったものでした。
「Xさん夫妻を見て。3人も子供を抱えて不安なはずのに、実家のことを心配する福島出身の知りあいに、気持ちよく車を貸してあげていたよ」
「警察官のYさんは、この寒い夜に緊急召集されて、朝まで外に立っていなければならないんだって。本当は奥さんや赤ちゃんのそばにいてあげたいんじゃないかな」
今は誰もが不安を抱えていて、誰もが身勝手な振る舞いを自制しようと努力している。それなのに、あなたはなぜ自分たちのことしか考えようとしないの?――たぶん、妻はそう言いたかったのだと思います。
こうしてたしなめられてみると、私も急に自分のことが恥ずかしくなり、いったん引きさがらざるを得なくなりました。
2)
まもなく、新たな問題が浮上してきました。
初めはおとなしく人形や積み木で遊んでいた娘が、「お砂場いく!」と駄々をこねはじめたのです。外を駆けまわるのが大好きな娘にしてみれば、訳の分からないうちに家のなかに缶詰めにされて、鬱憤がたまっていたのでしょう。自分と遊んでくれるわけでもなく、ピリピリしながらテレビや新聞の報道に見入っている私たち両親の態度にも、我慢ができなくなったのかもしれません。
宇都宮の町に毒の煙が来てるんだ。だから今は、お外で遊ぶわけにはいかないんだよ――私たちが情報収集の片手間に言い聞かせようとすればするほど、かえって娘のなかで不満が募っていくようでした。とうとう娘は金切り声をあげると、私の顔に爪をたて、猛烈な勢いでひっかきはじめました。
この渾身の抗議には私たちも根負けして、やむなく方針を変えることにしました。「何度も言ったように、いまは外では遊べないんだ。その代わり、誰かのお家で、みんなといっしょに遊べるかどうかを考えてみようね。」娘は私たちの提案にようやく納得が行ったらしく、こくりとうなずきました。
さっそく、妻が近所の友人たちに呼びかけました。呼びかけてみて分かったのは、ほかの家庭も多かれ少なかれ同じ問題に直面していたということでした。どこの家も、特に母親たちは相次ぐ大事故の報道に参っていて、それが子供たちの気持ちを少なからず鬱屈させているようでした。「こんな時だからこそ、集まれるひとだけでも集まろう」ということになり、まずはXさんの家、その次はYさんの家、といったふうに順ぐりに遊び場所を変えながら、三家族の母子たちが一同に会しては、お互いに励ましあったのです。
その間も、福島の原発事故はエスカレートの一路をたどっていきました。第一原発の3号機が爆発し、2号機でも炉心の一部が溶融、4つの原子炉を持つ第二原発でも周辺住民が避難を開始している……そんな報道が矢継ぎ早に飛びこんできました。
一方、宮城県の女川や、茨城県の東海村で緊急停止に追いやられたそれぞれの原発が、その後、いったいどうなっているのかということに関しては、いっさい続報が流れることはありませんでした。一寸先も見えないような息苦しい状況のなかで、千葉県の石油コンビナート炎上に関する不穏なチェーンメールが届いたりもして、私ばかりでなく、近所の知り合いたちも苦々しい気分になっただろうと思います。
そんな私たちの精神状態をよそに、数え切れないほどの余震が、執拗に宇都宮の町を揺さぶりつづけました。時に激しく、時に小刻みにぶり返してくる地響きの数々……なかでも夜中に打ち続く余震には、私もほとほと参りました。疲れた体を横たえるたびに、大地の胎動にじかに触れるような空恐ろしい心地がして、自分の中で平衡を保っていた身体感覚が確実に蝕まれていくようでした。
「やはり逃げるべきだ」と私は考えました。「いま逃げなければ、本当に取り返しがつかないことになるかもしれない」
上のように思い直したのには、もっとはっきりとした理由もあります。日頃は音信のなかったひとたちから立て続けに連絡が入り、彼らの声が一様に「逃げろ! 逃げろ!」と私の背中を押しているように感じられたのです。
まず、ある研究仲間からのメールが私のもとに届きました。そこには、ユーストリームの動画にリンクが貼られていて、元原子力技術者の後藤政志さんが、はやる気持ちを懸命にこらえながら、福島原発の危機的な状況を解説していました。「ひとが住めなくなるほどの汚染地が出てくるかもしれない」と彼は苦しそうに顔をゆがめていました。
次に受信したのは、十五年来のフランス人の親友からのメールでした。フランスで原発事故がどのように報道されているかを語ったうえで、親友はこう結んでいました。「本当に真剣に言う。数週間でも数か月でもいいから、とりあえずこちらに来てみないか。大きな家だから、まったく気兼ねはいらない。気の済むまでいてくれ!」
三つ目のメールは、アメリカ人の義父からのものでした。義父は、前日に私が母に電話したことに触れたうえで、こう書いていました。「レディーたち(私の妻と娘)のことを心配する君の気持ちは痛いほど理解できる。遠慮はいっさい無用。君たちが沖縄に着いたときには、すでに準備は万端に整っているはずだよ」
しかし、何と言っても決定的だったのは、友人のW先生と交わした会話でした。さまざまな意見交換の後で、先生は私にこう言ったのです――
十年後に、私の子供が被曝のせいで病気になったとして、そのときにもし、「ママは危険だと知ってたのに、どうしていっしょに逃げてくれなかったの?」と聞かれたとしたら、私はたぶん、生きていけないだろうと思います……
3)
きっかけは、思わぬ形でやってきました。相変わらず「逃げるか否か」ということで妻と押し問答をくりかえしていた3月14日の午後、二日前に電話で話したばかりの沖縄の母から、食糧を詰めこんだ宅急便が届いたのです。
大地震で高速や幹線道路が寸断されているとばかり思いこんでいた私は、本当にびっくりしたものでした。何しろ、当時はスーパーに買い物をしにいくと、生活必需品がほとんど買い占められていて、「次の入荷はいつになるか分からない」という返事が返ってくることもしばしばだったのです。テレビでは、首都圏の物資不足がさんざん報道されていた頃でした。
いずれにしろ、物がきちんと入ってくるのだから、私たちがここを出ていくことも十分に可能なはずです。このことが分かって、妻の心もだいぶ動かされたようでした。
そして15日の朝になりました。
妻は初めて意を決したように、自分から飛行機、高速バス、タクシーなどの予約・運行状況を調べ始めました。しらみつぶしに電話したりネット検索したりして分かったのは、宇都宮を離れて成田空港までたどり着けば、なんとかなるのではないか、ということでした。
高速バスの運行状況に関しては、はっきりした情報をつかむことができませんでした。それなら、いっそのことタクシーで行こう、ということになりました。
もちろん、タクシーに乗れば大変な出費になります。しかも、地震後の混乱に巻きこまれるリスクを考えると、成田への到着時刻を予測するのはほとんど不可能に等しいことでしょう。いや、そもそも本当に成田までたどり着けるのかということも、当時は決して自明のことではなかったのです。
しかし、こうした緊急時に使わなければ、こつこつとお金を貯めてきた意味などない、とも言えるはずですし、最初から丸一日かけて成田に向かうという心の準備さえしておけば、慌てて飛行機のチケットを確保しなくても済むことになります。
「だから、成田に着いたその場で、チケットを買えばいいんだよ」
「でも、成田からどこに行くの?」
「沖縄かフランスのどちらかだね」
こうして文章にしてみると、我ながら自分の無計画ぶりに呆れざるを得ません。それでも、この時の私のなかでは、「沖縄かフランスか」という選択肢は、どう考えても避けがたいもののように思えたのです。実際、「逃げてこい!」という強いメッセージを送ってくれたひとたちのいる場所で、私にとって「ここなら安全だ」と納得が行ったのは、親友のいるフランスと義父のいる沖縄だけでした。だからなおさら、是が非でも成田まではたどり着こう、と私は妻に言いました。
十時には、娘がZさんの家に遊びに行く約束をしていたのですが、思い切ってキャンセルすることに決めました。妻はZさんに平謝りに謝った後、すぐに荷造りを始めました。
その間、私は娘に厚手の服を着せながら、なぜZさんの家に行けないのか、なぜ今から家を出なければならないのかを説明しました。娘は私の顔をじっと見つめながら、どれくらい真剣に話しているのかを見定めようとしている様子でした。私がしゃべり終えると、「だって、ウツノミヤ、揺れ揺れだもんね」と娘は言いました。これは、彼女の同意のサインでした。
電話で予約したタクシーは、時間よりも早く、アパートの駐車場に横づけになっていました。私はスーツケース、旅行バッグ、パソコンを下まで運び降ろしながら、ちょうど三年前の3月、がらんとしたアパートのなかで引っ越しの荷物を解いている最中に、妻がぼそりとつぶやいた言葉を思いだしていました。
「わたし、この家に長くいない気がする」
「どうして?」と聞くと、「わからない。でも、またすぐに、どこか遠くへ行く気がする」と妻は答えたのでした。
この突然のフラッシュバックには、身のすくむような思いがしました。私はタクシーに荷物を積みながら、「もう宇都宮には、二度と戻れないのかもしれない」と思い詰めました。3年前の何気ない妻の言葉が、私の頭のなかでぐるぐると旋回しはじめました。
タクシーがアパートの駐車場を出たのは、午前十時ちょうどのことでした。しばらくすると、まるで見計らったかのように、次々に色んなひとから連絡が入ってきました。
まず、一年間も音沙汰のなかった妻の友人から電話がありました。「あるひとから聞いたんだけど、いま栃木に風が向かってるみたいなの。岩真さん家は子供がいるから、心配になって電話してみた」
妻が事情を説明し、何度も礼を言ってから電話を切ると、今度は私の妹から、二通のメールが飛びこんできました。「また原発が爆発したって。風が南に向かってるって」「フランス大使館が、関東一円から退避するように、フランス人たちに呼びかけてるって」
私が妹のメールに返信を書こうとしているところへ、W先生から電話が入りました。
「わたしたち、逃げることにしました」
先生によると、今朝になって辛うじて、最寄の駅にも電車が通ることになったらしいのです。これに乗って、なんとか関東圏から脱出したいと考えています、とW先生は付け加えました。
「実は僕らもいまタクシーに乗って、成田に向かってるところです」
電話口から、駅のアナウンスとおぼしき音声の合間に、W先生のほっとしたようなため息が洩れてきました。「よかった。ほんとうによかったです」
「関東に大量の放射能が来てるみたいです。お子さんのマスクははずさないほうがいいと思います」
「分かりました……あ、電車が来ました。岩真先生もどうかご無事で……」
そこで、慌ただしく電話が切れました。
こうした連絡が相次いだことで、私は自分のしていることが決して間違ってはいないと確信するにいたりました。
ありがたいことに、タクシーの運転手は無駄口ひとつ聞かず、万事心得ているかのように、狭く複雑に入り組んだ小道をすいすいとすり抜けていってくれました。どのみち高速道路は封鎖されていたので、一般道を行くことに選択の余地はなかったのですが、この運転手は、わざわざナビを手動に切り替えて、どうすれば渋滞に巻きこまれないか、そしてどうすれば地震の被害の大きい場所を避けて通れるかということを、周到に計算してくれたのです。
道中、くりかえし自衛隊のジープとすれちがいました。ガラス窓の向こうから、迷彩服を着た自衛官たちの押し黙った姿が飛びこんでくるたびに、私の頭のなかで「戦争状態」という言葉が明滅しました。
その日に限って、珍しく娘が静かだったことも、私の記憶に刻まれています。いつもなら、一定時間、車のなかに閉じこめられると我がままを言い始めるのですが、彼女は真一文字に口を結んだまま、じっと前を見据えつづけていました。
一時間ほど走った頃だったでしょうか。突然、妻がしくしくと泣き始めました。驚いた私が「どうしたの?」と聞くと、彼女はしゃくりあげながら窓の外を指差しました。なんという偶然でしょう。私たちのタクシーは、妻の母が住むマンションの目の前を通っていたのです。
「ちょっとだけ、挨拶していくかい?」
そう聞くと、妻は激しく頭を横に振りました。
もしかすると、これが義母さんとの最後のお別れになるのだろうか?――ふとそんな根拠もない考えが脳裏をよぎって、私は軽い眩暈に襲われました。いくつもの不思議な巡り合わせが重なったこの日、私はひたすら何かに祈りたくなるような気持ちを抑えることができませんでした。
4)
結局、この日の私たちは成田空港へ、そこからさらに羽田空港へとタクシーを飛ばしつづけることになりました。
運転手の機転のおかげで、成田には3時間半足らずで着くことができたのですが、いざ空港内のカウンターで確認してみると、成田発の飛行機はどこもかしこも満席ばかりでした。その代わり、羽田から出る那覇行きの最終便に、いくつかの空席が残っていることが分かりました。私は迷わずその場で家族3人分のチケットを予約し、ロータリーに待たせておいたタクシーに乗って、そのまま羽田へと直行しました。
夕方にたどり着いた羽田空港のロビーは、足の踏み場もないほどにごったがえしていました。明らかに外国人と思われる家族連れの姿もたくさん混じっていました。なかには大荷物を抱え、携帯電話を耳に当てながら、「もう我慢の限界だ。東京を出ることにしたよ」などと語る白人男性――英語のアクセントから判断すると、おそらくイギリス人――にも出くわしました。
長蛇の列に並んだ末、ようやくチケットを手に入れてゲートに入ろうとしたその時、私の背中をたたくひとがいました。振り向くと、数年前まで同じ研究室で学んだ仲間、S君がそこに立っていました。
思わぬ形での再会! お互いに驚きながら挨拶を交わすうちに、彼もまた奥さんと生後間もない赤ちゃんを連れて、避難しようとしていることが分かりました。
「いくら何でもおかしすぎるだろう、と思ったんで……」
S君の口調は、どこまでも穏やかでした。そのことが、彼の状況認識の深刻さを物語っているように見えました。彼もまた、フランス大使館による在日フランス人への呼びかけがあったことを把握していました。S君一家が乗るフライトの出発時刻が迫っていたので、私たちは手短にお互いの連絡先を交換して別れました。
羽田から那覇に出発する直前に起きたことのなかで、もうひとつだけ忘れられないことがあります。
それは、ようやくゲートの前まで来て、一息ついた時のことでした。妻が「母親に電話をかけたい」と言いだしました。妻は携帯電話でつながった彼女の母に向けて、いま自分たちが羽田空港にいること、これから沖縄に向かうことを説明しながら、ぽろぽろと涙を流しつづけました。
しきりに母と妹の名前を呼びながら、「わたしだけこんなことして、ごめんなさい……」とくりかえす妻――いま思えば、その姿は、沖縄に移り住んでからの彼女の気持ちの揺れを、そのまま先取りしていたと言えるのかもしれません。
那覇空港に到着した時には、もう夜の11時をまわっていたように思います。手荷物預かり所を出たところに、数年ぶりに見る母と義父の姿がありました。
私の記憶のなかでの彼らとは違って、二人ともめっきりと背が縮み、白髪だらけになっていました。
「Kちゃん(私の娘の名前)、大きくなったね! よく来たね!」
満面に笑みをたたえながら、精一杯歓迎してくれる彼らの上にも、私たち家族と同じだけの時間がすでに流れていて、どうあっても寄る年波は隠すことができないようでした。
私たちは義父が運転する車に乗りこみました。半開きにした窓からは、この時季の本土ではありえないほどの生暖かい風が入りこんで来て、マスクを着けることなく、思いきり顔に当たる空気を吸うことができる心地良さは、何物にも代えがたい気がしました。
車はすぐに高速道路に入っていきました。両脇に拡がる夜の那覇の街は、小高い丘から急傾斜で落ちていく谷合にいたるまで、まぶしいネオンの明かりでびっしりと埋め尽くされていて、停電つづきの暗夜のなかで過ごした宇都宮での数日間が、まるで幻のように感じられたものでした。
ひとしきり、3月11日以降のことについて話が咲いた後、助手席の母がこんなことをつぶやきました。
───
二年前、長い間住んでいたアメリカを離れて、夫が沖縄で仕事を始めることになった時には、「これで日本に残したままにしてきた母親(私の祖母)を看取ることができる」と喜んでいた。でも、本当はそうではなかったのかもしれない……自分たちが沖縄に移ってきたのは、あなたたちを受け入れるためだったのかもしれない……
私たちの日本語のやりとりを分かっているのかいないのか、義父は陽気な調子で合いの手を入れてきました。
“Now, you’re safe here. Cause you’re completely protected.”
(ここまで来ればもう安全だよ。君たちは完全に守られているんだから)
***
もう完全に安全だ――この義父のメッセージには、どこかしら引っかかるものがありました。もっとも、震災後の数日間に及ぶ緊張が解け、長旅に疲れ切っていた私の頭では、そこから先を考えてみる余裕は残っていませんでした。
私なりに、自分が何に引っかかっていたのかを理解したのは、沖縄に着いてしばらくしてからのことでした。
義父の家で思う存分、ネットにアクセスし、情報収集を進めていくなかで、私は東日本各県のホームページで発表された放射能情報を細かく比較するようになっていました。
その作業を通して確信したのは、私たちが外に出た3月15日の午前十時には、すでに大量の放射能の雲が宇都宮の街に舞い降りていて、しかも、その日の夕方まで、私たちを乗せたタクシーが走り回っていたコースも、すっぽりとその雲のなかに包まれていたにちがいない、ということでした。この私の推測は、後にSPEEDIの放射能拡散予測図が公開されるにいたって、はっきりと裏づけられることになりました。
問題の3月15日、私は自分たちが下した決断にそれ相応の自信を持っていました。この自信は、さまざまな巡り合わせのおかげもあって、ほとんど確信に近いものになりかけていたのです。
けれど、あの日から数か月が経った今、私の心のなかには、「15日に逃げたことは、本当に正しかったのだろうか?」という問いが重くのしかかっています。
――もし数年後に、あるいはもっと後になって、あの日に浴びたかもしれない大量の放射能のおかげで、私の娘が発病することになったとしたら……?
答えも出口もない問いを前にして、私は呆然と立ち尽くすほかないのです。
「逃げる」決断をした人も、「とどまる」ことを選んだ人も。
誰もがずっと、迷い、悩み、後悔を続けているのかもしれません。
そもそも、「家族と一緒に安心して暮らす」という当たり前のことのために
なぜそんな決断を迫られなくてはならないのか?
そのおかしさ、いびつさが改めて浮かび上がります。