『不屈の男 アンブロークン』は、戦争中の日本軍の捕虜虐待場面が「反日的」と批判され、日本公開が危ぶまれていたが、ようやく全国上映に漕ぎ着けた。映画作家の想田和弘さんは、封切りにあたってこうコメントしている。
「(略)本作は、ハリウッド映画なのにシネコンではかからず、独立系の配給会社と映画館によって配給・上映される。私たちは、その意味を深く深く考えなければならない。そのためにもこの映画を観るべきだ」
この映画のいったいどこが、どんな場面が、大手配給会社に上映をためらわせたのだろう? そう、「その意味を深く深く考える」ためには観なくては、というわけで映画館に足を運んだ。
物語は、ルイ・ザンペリーニがB-24爆撃機に搭乗している場面からはじまる。
イタリア移民の子のルイは、ケンカやいたずらに明け暮れる不良少年だったが、陸上競技の才能を開花させて有望な選手となった。ナチス政権下のベルリン五輪(1936年)では5000m走で8位に入り、4年後に開催が予定されていた東京五輪でメダルをめざすも、戦争の影響で中止に。ルイは第二次世界大戦に従軍し、米軍機の爆撃手となったのだった。
1943年、ルイが乗った爆撃機はエンジントラブルで南太平洋の海中に墜落。ここから過酷な試練が果てしなく続く。
飢えと渇き、嵐、サメの来襲、日本軍機による上空からの機銃掃射などと闘いながら、二人の仲間と救命ボートに乗って47日間漂流。ついに日本海軍の船に見つけられ、捕虜となって東京・大森の収容所に送られる。
そこでルイを待っていたのは、日々の労働と、心身を打ち砕くような暴力の連続。元五輪選手のルイは、収容所所長・渡辺伍長に目をつけられて執拗な虐待を受ける。その後、空襲が激しくなり、捕虜たちは新潟・直江津の収容所に移送されることになる…。
この映画のどこが「反日的」? 感想はそれに尽きる。
たしかに物語の後半、収容所でルイが暴力を受ける場面が繰り返される。しかし日本軍の残虐性を際立たせる意図がないのは明らかだ。なぜならルイを虐待する役割を担っているのは渡辺伍長一人であって、ほかの日本兵は暴力行為に直接的には関与しない。しかも渡辺役には長身・端正なルックスのギタリストMIYABIを起用。ステレオタイプの残忍な悪役ではなく、複雑な葛藤を抱えている知的な人物造形になっているのだから。
描かれているのは、ルイと渡辺のたがいの尊厳をかけたすさまじい個と個の闘いだ。これを「反日映画かどうか」と問うこと自体が意味はない気がする。
この映画は、ルイ・ザンペリーニの伝記をもとにつくられている。著者のローラ・ヒレンブランドは、ルイ本人(2014年に97歳で死去)と家族、米軍関係者、研究者に長時間インタビューを行い、公文書館の膨大な資料を調べて書き上げた。
映画は終戦によって捕虜が解放され、ルイも祖国に帰るところで終わるが、伝記には帰国したのちの人生も綴られている。彼は結婚して幸せに暮らすはずが、日本軍に対する憎しみにとらわれ、ひどいトラウマに苦しんだそうだ。悪夢と不眠に悩まされ、酒浸りとなる。家庭崩壊寸前にまでいったが、のた打ち回るような苦悶のなかで、キリスト教の教えから「許す」ことを学び、やがて長野五輪(1998年)では聖火ランナーとして日本の地で走っている。
そんなルイの伝記は、アフガニスタン・イラク戦争の帰還兵が毎年250人以上自殺している米国では、広く共感を呼んだのかもしれない。2010年の刊行から、400万部を売り上げるロングセラーになったという。
ネットで過去の新聞記事を検索すると、最初はこの伝記に記されている日本軍にまつわる記述に非難の声があがったらしい。そして映画が全米で公開されると、署名サイトで日本国内での上映阻止キャンペーンが展開され、1万人以上が署名。
さらに安倍首相と思想を共有しているといわれている保守系団体「史実を世界に発信する会」も「上映反対」のコメントを出すに至って、当初配給・上映を予定していた東宝東和はちゅうちょする。結局、東宝東和は「忖度」し「自粛」を選んだのである。映画関係者なら、観れば「反日映画」などではないことは一目瞭然であるにもかかわらず。こうして約1年間、公開が見送られていたのだった。
繰り返すが、戦争中の日本軍の残虐性をことさらに強調する場面はない。つまりは映画の個々の場面がどうこうではなく、「旧日本軍の捕虜虐待」自体を「描くな」ということなのだ。
だけどそんなことをいったら、戦争映画は上映できなくなってしまう。戦争は国民に殺し合いをさせる国と国の闘いだ。残虐行為をおこなっていない軍隊なんて、古今東西あり得ない。もちろん旧日本軍だって例外じゃない。侵略したアジアの国々でも、多くの人々を傷つけたのは紛れもない事実。それを「描くな」「上映するな」というのは、歴史の隠ぺいであり、世界中でつくられてきた映画へのリスペクトがあまりにも欠如している。
ふだんはハリウッド映画を扱わない独立系の配給会社と映画館が手をあげたのは、ひとつの作品が「理不尽に葬られる」ことに対して、動かずにはいられなかったのだろう。
『不屈の男 アンブロークン』の日本公開までのいきさつから見えてくるのは、映画・テレビ業界の閉塞感である。
『鈴木邦男の愛国問答(第193回・テレビでは流せない映画)』で鈴木さんが書かれていたが、大手の映画会社・配給会社とテレビ局は物議を醸すおそれのある作品はつくらなくなっている。
今回だけでなく、安倍政権が続くかぎりは、日本を加害者の視点からとらえた戦争映画がシネコンでかかることはないだろう。あるいは沖縄の基地問題を背景にしたテレビドラマなどはつくれないだろうし、貧困や格差をテーマに据えた物語が制作・放映されることもない。
いまやシネコンとテレビのゴールデンタイムからは、現政権の逆鱗にちょっとでも触れそうな作品はきれいになくなっている。流れるのは、どこからも誰からも文句のつけられない設定の無難なものばかり。これって何なんだろうと思う。政権批判につながる作品をつくったからといって、特高に引っ張られるわけじゃない。軍事政権下の国々や、旧東欧諸国、マッカーシズムが吹き荒れた時代の米国のように、ただちに身の危険が迫るわけでもない。なのに、この国が抱えるさまざまな問題に切り込む作品をつくれないのは、暴力で抑圧されるよりも逆に怖い。
ともあれ『不屈の男 アンブロークン』は「普通にいい映画」だった。想像していたより抑制の効いたつくりで、感動の押し付けもほとんどなく、そのぶん自分で考える種がぎっしりつまっている作品である。
今はフィクション・ノンフィクションを問わず、見ごたえのある作品はミニシアターで上映されるか、テレビでは深夜にしか放映されない。とりわけ独立系の配給会社と映画館はどこも、ほんとうにがんばっている。全国のミニシアターのラインナップには良質・硬質な作品がたくさん並んでいるので、これからもできるだけ観に行って応援したいと思う。
(柳田茜)
『不屈の男 アンブロークン』
監督 アンジェリーナ・ジョリー
配給 ビターズ・エンド
(2014年/アメリカ/137分)
そもそも民主主義は国民が権力を監視し、批判し、改善を要求することができるから進歩するのであろう。しかし、現政権は 国民を盲目にしたいのだろう。それは何かに怯えているからだ。 アベ首相の政治姿勢は親が子にものを申す時の口癖「あなのために言うのよ」とよく似ている。しかし、子は高校生位になると、それが親のためであることに気づく。親子の信頼関係崩壊の瞬間だ。これからはさらに国民を盲目にしたいという思いは募ることだろう。しかし、それは政権運営不安のバロメーターでもあるのだ。