沖縄への家族旅行の合間を縫って、辺野古へ行ってきました。マガジン9では、「三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記」が始まりましたが、実際に自分の目で確かめたかったのです。
私は沖縄ではレンタカーを使わず、もっぱらバスで移動しています。8月12日午後、高速バスで宜野座ICまで乗り、その近くのバス停から77番の路線バスで到着しました。
同じく米軍施設建設に揺れる高江には、友人がいることもあって度々足を運んでいたのですが、実は、辺野古を訪れるのは初めてだったのです。どこで抗議しているか分からず、まずヘリ基地反対協議会のHPにもあるテント村へ向かいました。
想像していたよりも、辺野古は大きな街でした。普通の住宅街といった感じですが、その中にあった「代替施設安全協議会」という看板が掲げられたプレハブの建物を見ると、この地が基地建設の最前線であることを実感させられます。
テント村での座り込みは、もう終わる時間でした。そこにいた方に案内していただき、キャンプ・シュワブ第1ゲート前へ行く軽自動車に乗せていただきました。ゲート前には50~60人ほどが抗議に集まっていました。午後4時を回ったとはいえ、沖縄の日差しはまだ強く、大変な暑さでしたが、そんな中強い意志を持って抗議行動に参加している方々に頭が下がります。
私も、友人が作った「辺野古を埋めるな」と書かれたプラカードを持って、参加者と一緒に「わっしょい」と言いながらゲート前を行進しました。大型ダンプカーをはじめ自動車の通行の度に、ゲート前の行進はストップさせられます。立ちはだかるのは民間警備会社の警備員。彼らが抗議している人に対峙し、警察官はその後ろにいます。何でも民間にアウトソーシングするのが流行とはいえ、その光景は異常としか言いようがありませんでした。
警備員は「殺人鉄板」とも言われた山型の泥落としの上にいることも多いようでした。先述の通り大変な暑さの中、危険な作業を強いられています。ゲート前を離れる際に、反対する人々から「暑い中、ご苦労さん」「警察に無理言われたら断れよ」などと声がかけられ、思わず頭を下げる警備員もいました。
基地の中からは米兵が、文字通り「高みの見物」をしていました。米軍を防衛省=防衛局が守り、彼らを警察・海保が守り、その外側に民間警備会社がいて反対する人々と向かい合うさまを見下ろしていたのです。まさに辺野古建設をめぐる状況のカリカチュアのようでした。
集会を終え、抗議していた人々が日除けに使っていたブルーシートなどをきれいに片付けていたのも印象的でした。夜はまた、午後7時から抗議を行うとのことでしたが、申し訳ない気持ちを抱きつつ、失礼しました。帰りは那覇まで戻る方の車に同乗させていただきました。お名前を伺うのを忘れてしまい恐縮ですが、この場を借りてお礼申し上げます。
ここで、元沖縄県議会議長・自民党県連元会長の外間盛善さんの言葉を紹介します。「沖縄の米軍基地は、占領や強制接収でつくられてきたものです。辺野古埋め立てを認めれば、沖縄が初めて自ら基地を準備してあげることになる。沖縄がずっと『基地の島』でありつづけることになる」(しんぶん赤旗日曜版2013年12月15日)。そのくらい切羽詰まった状況だと思います。
辺野古を訪れた日の午前中は、南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕群20号を見学していました。69年前、想像を絶する極限状況に置かれた人々の息遣いが聞こえてくるようでした。そして、辺野古で巨大軍事基地が建設されようとしている今…。過去と現在、ずっと沖縄は蹂躙され続けているのです。
ほんの僅かな時間でしたが、その場に行かないと見えないこと、分からないことはあるものですね。まず興味を持ってください。そして、足を運んでみてください。23日にはキャンプ・シュワブ第1ゲート前で県民大集会があり、那覇市、沖縄市、宜野湾市などからチャーターバスが出るようです。また、「建白書島ぐるみ会議」が那覇―辺野古間のバスを毎週月曜日に運行するようですので、こちらの利用もおすすめします。(t)