「ゴビンダさん」という名前を聞いても、ピンとこない方が多いかもしれない。1997年に起きた東京電力女性社員の殺害事件で無期懲役が確定したネパール人、と説明すれば、「ああ」と納得していただけるだろうか。
ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(44)は、捜査、裁判の過程で終始一貫して冤罪を訴えてきた。2003年に最高裁で刑が確定して横浜刑務所で服役しているが、05年に再審を請求し、東京高裁で審理が行われている。
静かに続いていた再審請求審が最近、一躍注目を集めていることは、マスコミ報道でご存じだと思う。事件現場の遺留物などのDNA鑑定が実現し、7月に新たな事実が判明したのだ。8月末、「無実のゴビンダさんを支える会」の客野美喜子・事務局長らの話を聞く機会があり、ただちに再審を開始すべきだとの思いを強くした。
今回のDNA鑑定に触れる前に、事件と裁判の経緯を振り返っておこう。被害者の女性が売春を繰り返していたことから、センセーショナルな取り上げられ方ばかりがされ、肝心の法律的な問題点がきちんと伝わっていない印象があるので。
事件は97年3月19日、東京都渋谷区のアパートの無施錠の空室で、被害者の女性(当時39)が首を絞められた遺体で発見されて発覚した。顔に殴打の跡があり、財布からは4万円がなくなっていた。女性は3月8日に常連客とホテルで性的関係を持ち、別れた後、深夜に現場のアパートへ男性と入るところを目撃されていた。そのまま帰宅せず、捜索願が出ていた。
ゴビンダさんは隣のビルに住んでいて、事件現場の空室のカギを預かっており、さらに被害者を買春したことがあった。疑われていることを知って、自ら警察に出頭。不法残留で逮捕され、2か月後にこの事件の強盗殺人容疑で再逮捕される。ゴビンダさんが犯人と示す直接的な物証はなく、状況証拠を重ねて起訴された。
裁判でゴビンダさんは、以前に被害者をこの部屋で買春したことを認めたうえで、「被害者はその時に部屋にカギがかかっていないと知っており、別の男性と来た可能性がある」と主張した。また、現場の部屋にはゴビンダさんの陰毛が落ちており、トイレにあったコンドームの精液はDNA鑑定でゴビンダさんのものとわかったが、「最後に会ったのは2月の終わりで、その時のもの」と反論した。
1審の東京地裁は、遺体のそばにゴビンダさんと被害者以外の陰毛が2本落ちていたことからも、「第三者がこの部屋に入って犯行に及んだ疑いが払拭しきれない」と指摘。「状況証拠にはいずれも反対解釈の余地があり、ゴビンダさんを犯人とするには合理的な疑いが残る」として、2000年に無罪を言い渡す。
無罪判決を受ければ、身柄は解放される。しかし、検察はゴビンダさんが故国に帰ることを阻止するため、控訴審の審理に影響が出るなどとして再勾留を要請し、東京高裁はこれを認めてしまう。最高裁も3対2で追認した。無罪になった被告が身柄を拘束され続けるという、何とも異例の展開をたどった。
2審。わずか3か月間の審理で、東京高裁は1審と全く逆の証拠判断をした。「被害者が、この部屋が空室で施錠されていないと知って売春客を連れ込み、あるいは、ゴビンダさん以外の男性が被害者をこの部屋に連れ込むことは、およそ考えがたい事態である」と断じ、無期懲役を言い渡した。1審と同じ状況証拠が「すべてゴビンダさんの不利に解釈された」と客野さん。ちなみに、高裁の裁判長は、無罪判決後の再勾留を認めた当人だ。最高裁も上告を棄却した。
で、再審である。足利事件、布川事件と再審無罪が続いたことや、検察の証拠改ざん事件などの影響もあって、弁護団の要求を受ける形で東京高裁が今回のDNA鑑定を決定し、東京高検が専門家に依頼した。対象は、現場で採取された精液や陰毛など42点。過去の再審請求審では、検察側が証拠開示や再鑑定に応じる可能性は極めて低かったから、それに比べれば順調な推移だったと言えるかもしれない。
その結果――、被害者の女性の体内に残っていた精液から2人分のDNA型が検出された。一つは被害者の型だったが、もう一つはゴビンダさんや事件当夜にホテルで性交した常連客の型ではなかった。そして、それは現場の室内にあった陰毛のDNA型と同じだった。つまり、ゴビンダさん以外の、今まで浮上していなかった男性が、事件発生と極めて近接した時点に、しかもおそらくこの部屋で、被害者の女性と性的関係を持っていたわけである。
前述した通り、2審判決は「被害者が、ゴビンダさん以外の男性とこの部屋に入るはずはない」と認定し、有罪の大きな根拠にしていた。今回のDNA鑑定の結果によって、その前提が崩れるわけだ。「証拠上、ゴビンダさんが犯人だという可能性がゼロになったわけではないが、相当に薄まった。比較すれば、今回新たに浮上した男性の方が疑わしい」と客野さん。「証拠としての新規性は十分あり、新旧の証拠を併せて判決に合理的な疑いが生じたのだから再審を開始すべきだ」と訴えている。すぐに再審を始めて、審理をきちんとやり直すべきだと思う。
ところで、今回のDNA鑑定の結果を読売新聞が特報したのは7月21日付朝刊だった。しかし、この時点では鑑定書は東京高裁に提出されておらず、弁護団は内容を全く知らなかったそうだ。要するに、検察側が読売にリークしたらしい。自分たちに不利な鑑定結果なのに積極的に報じさせるってのは、何か意図があってのことじゃないかと訝ってしまうよね。
読売の記事をはじめ、後追いしたマスコミ各社に、検察は「再審開始に必要な新規性、明白性がある証拠とは言えない」「無罪に直結しない」というコメントを流し続けた。これに対して、正式の鑑定結果を見ていない弁護団は当然、具体的な反論をなし得なかった。検察のリークは、弁護団に先んじて世論形成してしまうためだったのではないか。そんな見方も出ている。
DNA鑑定書が正式に提出された後の8月10日に開かれた、裁判所、検察、弁護団による三者協議で、検察は鑑定の信用性についての意見を保留し、その後、9月16日までに意見書を出すと伝えてきたそうだ。弁護団も9月中に最終意見書を出す方針を示しており、客野さんは「10月5日の次回・三者協議で再審開始の見通しが示されるのではないか」と期待をもって話していた。「支える会」は9月14日に緊急集会を開く。
ところが、本稿があらかた完成した段階で、さらに新たな動きが出てきた。
「検察が、これまで開示していなかった約40点の物証についてもDNA鑑定を実施する」と報道されたのだ。被害者の胸から検出された唾液(読売新聞)や、被害者の首を絞めた時に付着したとみられる皮膚片(東京新聞)が含まれているという。中でも、胸の唾液の血液型はゴビンダさんとは異なり、新たに浮上した男性と同じだそうだ。
東京新聞の取材に、検察幹部は「結果が冤罪を主張する弁護側に有利になる可能性があるとしても、鑑定すべきだと判断した」と話している。額面通りに受け取りたいところだが、これらの証拠を今まで隠し続けていた検察をにわかに信じられないのが、つらいところではある。「狙い」があるのでは、と勘繰ってしまう。
いずれにせよ、新たなDNA鑑定の結果が出るまでの半年間、おそらく再審開始の決定は出ず、ゴビンダさんは獄中に閉じ込められ続けることになりそうだ。検察や裁判所が、今後の再審請求審に真摯な姿勢で臨むよう求めて、DNA鑑定の結果を聞いたゴビンダさんの手紙の一節を紹介する。
「DNAじっけんで私は無実であること明らかになっても、私は刑務所にいなければいけない、なぜですか? 本当に辛い悲しいです」「もし本当に悪ことしたのなら、しかたありません。でも、私は刑務所に入れられるような悪いこと、絶対に絶対にやってないのです。14年間、人生の一番いい時期、無駄になりました」
相次ぐ再審・無罪の流れについては、
本稿でもこれまで袴田事件、布川事件などについて取り上げてきました。
この事件についても、そもそも、なぜ「40点もの物証」が公開されてこなかったのか?
「無罪」の人間に対し、なぜ再拘留が認められてしまったのか?
さまざまな疑問が浮かびます。
元検事の弁護士・郷原信郎さんが、
検察という組織が抱える問題そのものについて指摘している、
今週の伊藤塾レポートもぜひあわせてお読みください。