「までい」とは、「手間暇を惜しまず」「心を込めて」「丁寧に」「慎ましく」といった意味の方言だ。本当は「スローライフ」をキャッチフレーズに使おうとしたが、まだ一般化していなかった。そこで「までい」に置き換えたところ絶妙にマッチし、あっという間に住民に浸透したそうだ。
「までいライフ」。福島県飯舘村(いいたてむら)が掲げてきた、自立をめざす村づくりの基本理念である。
飯舘村の大部分は、福島第一原子力発電所の半径30キロ圏外にある。しかし、爆発事故の後、風向きや気象、地形の影響で放射線量の高い状態が続き、村全域が4月下旬に「計画的避難区域」に指定された。事故前に6200人いた村民が村外への避難を強いられていることを、もはや知らない人はいないだろう。
そんな飯舘村の村づくりについて、20年間ウオッチしてきた松野光伸・福島大特任教授の講演を聞く機会があった。原発の交付金とは無縁の小さな村が、だからこそ長い時間をかけて知恵を絞り、さまざまな障壁を乗り越えて培ってきた「までいライフ」。それが、一度の原発事故であっという間に水泡に帰す様子に思いを巡らせるにつけ、とても複雑な気持ちになった。
飯舘村の自立に向けた取り組みは、約30年前の1983年に遡る。それまでは他の自治体同様、企業誘致による地域振興を模索していたが、オイルショックの時に村内の工場の従業員30人が解雇され、方向に疑問を感じ始めた。決定的だったのが、米の作況指数「7」という甚大な被害を受けた1980年の大冷害。暗いイメージに覆われ、出身地を聞かれても「飯舘」とは言えなかったそうだ。
村民に自信と誇りを持ってもらうためには、どうすればいいか。新しい産業を興すアイデアは? 1956年の村発足以来、引きずってきた旧2村の意識もこの機会に払拭したい。そこで、村づくりの基になる総合振興計画(第3次)の策定を、しがらみの少ない30代の若手村民に白紙の状態で任せ、1年間議論をしてもらったのが始まりだった。
出てきたのが「飯舘牛」のブランド化。繁殖から肥育、加工、販売までを村内で一貫させることにして、クール宅配便もなかった時代に「ミートバンク」と銘打った牛肉の宅配事業に乗り出した。「飯舘牛」の名は県内外に広く知られるようになり、成功する。意識を変えた若手村民たちは月に1回、酒を飲みながら意見を交わす「夢創塾」を結成し、それぞれの立場から村おこしに参加しようとする機運が高まっていく。初代塾長が、菅野典雄・現村長である。
「若妻の翼」なんて名前の事業も生まれた。きっかけは、夢創塾が企画した1987年の「新春ホラ吹き大会」。女性参加者が「結婚した村の女性には海外旅行なんて夢のまた夢。でも、飯舘村の21世紀には『村営主婦の翼』が飛んでいる」と語ると、それが次の村長選挙の公約に採り入れられ、村の事業として実現してしまう。30代~40代の19人がドイツとフランスを回り、帰国後には体験記を自費出版したそうだ。5年間続いて、女性リーダーの育成につながった。
1994年に始動した次の総合振興計画(第4次)では、20の各行政区が地区別計画を作った。計画の実現に向けて、行政区ごとに10年間で1000万円を上限に、村が補助金を出すことにした。ただし、事業費の1割は地元負担。自分たちがお金を出すに値する事業なのか、各行政区での議論が深まるとともに住民の参加が進み、責任感も醸成されたという。
「までいライフ」をうたう現在の総合振興計画(第5次)は、2004年に決まった。「人、モノ、金を村内で循環させる」との方針の下、道路の整備や除雪を各地区の住民に委ねたり、第3子以降に年5万円の子育てクーポンを支給したり、中学校のバス購入のために3年で10%の利率の村民債を発行したり、と独自の施策を進めてきた。松野さんによると、当初は村民の間に「『までいライフ』とは贅沢をするなということか」との声もあり、道路整備や除雪を委託される時には「そこまでやらせるのか」といった反発も出た。しかし、取り組むうち次第に「地区に合ったきめ細かい対応が可能になる」との評価を受けるようになったそうだ。
第5次計画の作成と相前後して、飯舘村は周辺自治体と合併するかどうかの選択を迫られた。村を二分した2004年の村長選で「合併反対」を掲げた菅野氏が3選し、自立の道を続けることになる。小さい村ゆえ、この選挙のしこりはすぐには解けなかったようだ。しかし、次の08年の村長選は菅野氏が無投票で当選。「までいライフ」の村づくりが新たな局面に入っていく段階で起きた原発事故だった。
私の取材経験から言うと、たとえ小規模な村であっても、住民参加の村づくりを実践するのは難しい。役場との距離が近い分、「困ったことは役場にお任せ」の風潮が強いし、人口が少なく人間関係が濃密なだけに好き嫌いの感情が強くてなかなかまとまらないのだ。飯舘村の場合は、規模の小ささをうまく生かし、一人ひとりが村おこしに参加してもらうよう仕向ける「舞台設定」が上手だ、と松野さんは分析していた。ちなみに、村民に意見を求める場でも公募制はほとんど取らず、「村の将来を担う可能性がある普通の人」を一本釣り方式で選ぶそうだ。恣意的との批判を受けかねないが、小さい自治体だからこそ誰が必要かは自分たちでわかる、ということらしい。
さて、原発事故後である。
飯舘村は「までいな希望プラン」を立てた。避難生活のめどを2年間に設定し、健康管理や土壌の除染とともに、敬老会、小学6年生の沖縄の旅、中学生のドイツ研修ツアーといったコミュニティー保持や人づくりのための事業を掲げている。安全(健康)と安心(暮らし)の両立をめざすとして、村から1時間以内の避難場所を確保し、100人以上が入所する特別養護老人ホームの存続や村内9事業所への通勤を国に認めさせた。将来、村に戻った時のことを考えて、できるだけこれまでの生活を保てるように腐心している。自立の取り組みと同様、「地域の健康や生活をどう守るかは、その自治体に任せてほしい。上から一律の線引きをするのはやめてほしい」というスタンスなのだ、と松野さんは説明していた。
一方で、「安全を最優先にすべきだ」との批判も強く受けてきた。全村避難に前向きでなかったことに対し、主に都会の人たちから「殺人者」「命より村が大事なのか」といった誹謗・中傷のメールやファクスが役場にたくさん届いた。村民からも「放射線の情報をもっと」「自主避難の便宜を」との要望があった。菅野村長自身、元教員の妻から「危険への認識が弱い」なんて言われたらしい。
もちろん、一定の安全基準は必要だし、子どもたちを避難させる環境を整えることは行政のみならず大人の義務だ。しかし、そうした条件をクリアしたうえでなお、自分たちの責任で村に残る方法を探りたいというのなら、国や国民は可能な限り後押しするべきだと思う。特に、原発を地方に押し付けてきた都会の人間には、そうすることによってしか、地方の村が培ってきた「自立」をぶち壊した責任を取れないのではないか。少なくとも私たちに、村を一方的に誹謗・中傷する資格がないことだけは確かである。
とにかく村民全員の「安全」を優先するのか、
「いつか戻る日」のためのコミュニティ維持を考えるのか。
本来ならば、どちらかを選ぶというものではないはずの、
二者択一を突きつけられた飯舘村の人たち。
原発事故が壊したのは、
人々が積み重ねてきた「日常」そのものであることを、
改めて痛感させられます。