昔のことと言うべきか、そう遠くない頃のことと言うべきか。1971(昭和46)年のちょうどこの時期、復帰を翌年に控えた沖縄で、米軍基地に貯蔵された毒ガスの島外移送が行われていた。名づけて「レッドハット作戦」。
致死性のものも含め、全部で約1万3000トン。毒ガスを積んだトレーラーは、沖縄本島中部の知花弾薬庫(現・沖縄市の嘉手納弾薬庫)から東海岸の天願桟橋(現・うるま市)まで、距離にして11~13キロの道をゆっくりと走った。ガス漏れを検知するため、トレーラーにはウサギが乗せられていた。
同年1月13日の1次移送ではマスタードガス150トン、7月15日~9月9日の2次移送ではサリン、VXガスなどを運び出した。1次移送の際は沿道の約5000人が避難し、80校以上の小・中・高校(児童・生徒約7万5000人)が臨時休校。2次では住宅地などをできるだけ避ける経路に変更し、米軍は「安全だ」と強調したものの、付近の住民は自主的に避難したという。
移送に使われたトレーラーは、延べ1300台以上。毒ガスは船で北太平洋の米国領ジョンストン島へと運ばれた。
2次移送の開始から40年の今年7月15日、「琉球新報」「沖縄タイムス」の地元2紙には関連記事が載った。しかし、本土ではもはや、この出来事を語り継ぐ人はほとんどいない。当時放映された日本テレビ制作のドキュメンタリー番組「毒ガスは去ったが…」の上映会に参加する機会があり、今日に通じる教訓について、いろいろと考えさせられた。
米軍が沖縄での毒ガス貯蔵を認めたのは、1969年7月の米紙報道がきっかけだった。致死性のVXガス放出事故が起き、米軍人ら24人が病院に収容された、との内容だ。それ以前から、周辺では皮膚の炎症や目の痛みを訴える人がいたり植物が枯れたりしていたが、顧みられなかったそうだ。もし、事故の被害者が米軍人でなかったら記事にもならず、毒ガスの存在もうやむやにされていたかもしれない。今も変わらぬ構図である。
沖縄県公文書館のホームページによると、米国外への毒ガス配備が沖縄だけとされたこともあり、住民は不安と恐怖に包まれた。そして、怒りの声が広がる。立法院は「毒ガス兵器の撤去要求決議」を採択し、市町村議会の撤去決議、各種団体の抗議声明が相次いだ。1万人規模の「県民大会」も開かれ、米軍は毒ガスを島外へ運び出さざるを得なくなった。
日本政府は当初、「軍事機密」を理由に関与を避けていた。琉球政府の屋良朝苗主席は、日米両政府に訴え続けた。「毒ガスは沖縄の人々に知らされずに持ち込まれた。撤去は沖縄側の責任ではない。米国が撤去にかかる地元の費用を一切負担しないというのは道理が通らない」。結局、米国が負担すべき代替道路建設費など60万ドルを、日本政府が肩代わりすることで決着する(7月15日付・琉球新報社説)。こうした経緯にも、昨今の基地問題に共通する部分が多い。
番組では、毒ガス移送の日に住民が避難して人っ子一人いなくなり、静まり返った集落が映し出される。「沿道には厄払いの塩が置かれた」なんてナレーションも入る。主婦が率直な疑問を投げかける。「撤去する時はこんなにものものしいのに、では、沖縄に入ってくる時はどうだったのか」と。「次は核撤去だ」なんて語る人もいる。
米軍基地の中には、いつ何が持ち込まれているかわからないこと。そして、軍事機密の名のもと、情報は決して開示されないこと。それは、沖縄に基地がある限り変わらない。長い間、基地との共存を余儀なくされてきた沖縄の人たちは、十分に実感しているからこそ基地に反対するのだということを、改めて認識した。
ところで、この番組の撮影を担当した森口豁さん(現ジャーナリスト)は上映会で、毒ガス移送から学んだこととして「自分の命は、自分で守るしかない。小さな島で、逃げるしかないということだった」と話していた。そして、福島第一原発の事故になぞらえて、「私たちのこれからに通じる」とも。
目に見えない放射能に、どう向き合っていけばいいのか。住民の命を守るためには何をするべきなのか。反原発であっても原発容認であっても、毒ガス移送から汲むべき教訓をしっかり受けとめ、今後の対策に生かさなければいけないと、強く思った。
40年前の事件からも、
沖縄と「基地」を取り巻く構図は、
何一つ変わっていないことを思い知らされます。
過去から何を学び、どう活かしていくのか?
まさに今、それが問われているときなのかもしれません。