それは、事件発生から45年が経った翌日のことだった。
元プロボクサーの袴田巌死刑囚(75)が冤罪を訴えている「袴田事件」の第2次再審請求審で、静岡地裁が7月1日、「犯行時の着衣」に付いた血痕をDNA鑑定する方針を示した。袴田死刑囚の弁護団は「着衣は捜査機関にねつ造された」と主張しており、血痕が被害者のものでないといった鑑定結果が出れば、再審開始が認められて無罪判決につながる可能性も出てきた。
当コラムでもこれまで何回か取り上げたが、袴田事件について簡単におさらいしておこう。
1966年6月、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、味噌会社専務の一家4人が殺害された。住み込み従業員だった袴田死刑囚が8月に逮捕され、犯行を「自白」する。公判では一貫して無罪を主張したが、1審の死刑判決が80年に最高裁で確定し、第1次の再審請求も2008年に最高裁で退けられた。1審・静岡地裁の裁判官だった熊本典道さん(73)が07年に「無罪の心証を持っていた」と告白。多くの疑問点に目をつぶったまま死刑判決が導き出される過程は、昨年公開された映画「BOX 袴田事件 命とは」で描かれたので、ご存じの方も多いだろう。
死刑判決の有力な根拠となったのが、今回、DNA鑑定されることが決まったシャツやズボン、ブリーフなどの「5点の衣類」である。犯行現場そばの味噌工場のタンクから見つかったのは事件の1年2カ月後で、検察は「犯行時の着衣」をパジャマから変更した。しかも、その中のズボンは、公判廷で袴田死刑囚には小さくてはけなかったにもかかわらず、判決は「味噌に漬かっているうちに縮んだ」と認定してしまった。
発見の経緯からして怪しいし、公判の途中で犯行時の着衣を変更するなんてこと自体、おかしいと考えるのが一般人の感覚だろう。味噌に漬かっただけでそんなに縮むというのも、にわかには信じがたい。一方で、1年以上も味噌に漬かっていたにしては、付着した血痕がはっきり見えているのは不自然ではないか。で、支援団体は衣類の味噌漬け実験を重ねるなど、袴田死刑囚の着衣ではないことを証明しようと腐心してきた(拙稿参照)。
静岡地裁がDNA鑑定の方向を打ち出した2日後、支援団体が静岡市清水区で開いた集会で、弁護団事務局長の小川秀世弁護士の話を聞いた。
7月1日は、第2次再審請求をめぐる裁判所、検察、弁護団の三者協議だった。裁判所は、弁護団が求めていたDNA鑑定について、8月下旬に鑑定人尋問をする意向を示し、「鑑定人の予定を聞いてほしい」と述べたという。検察も反対しなかったそうだ。ふだんは冷静な小川弁護士にして「ねつ造かどうかを確認するための鑑定を、裁判所が『やってみよう』と言ったんですよ」と興奮気味だった。
DNA鑑定のポイントは2点ある。一つは、衣類に付いた血痕が被害者のものと一致するかどうか。被害者一家の血液ではないことがはっきり分かればもちろんのこと、そこまで行かなくても、血液型や性別が異なると判明するだけで「ねつ造」の可能性は高くなる。もう一つは、シャツの内側に付着した血痕が袴田死刑囚のものかどうか。「違う」となれば、あとから証拠を作った疑いが強まる。いずれも、ねつ造かどうかは別にしたって、袴田死刑囚と事件を結んでいた大きな拠り所が崩れることは確かだ。
弁護団側の鑑定人は、期間のめどを「半年以内」としており、今年度中に結果が出る見通しという。
5点の衣類のDNA鑑定は第1次再審請求審でも実施されたが、2000年に「鑑定不能」の結果が出ている。このため弁護団内には「一度そういう結果が出ているのに裁判所が認めるだろうか」と、実現に懐疑的な見方もあった。しかし、新たに加わった若手弁護士が最近になって改めて学者に当たったところ、「自信を持ってできる」という回答が得られ、今回の鑑定申請に至ったそうだ。この10年間の技術の進歩を、裁判所も無視できなかったのだろう。
小川弁護士は、検察による証拠開示の現況も説明した。原審の判決では、5点の衣類のズボンが「味噌タンクに漬かって縮んだ」ことの根拠として、ズボンのタグに記された「B」がサイズを示すことが挙げられていた。もともとは大きいサイズだったから袴田死刑囚がはけた、というわけだ。しかし、検察が新たに開示した同種のタグには、同じ位置に「色」とはっきり記されていた。つまり、ズボンは最初から袴田死刑囚にははけない小さなサイズのもの=あとからねつ造された可能性、が浮き彫りになった。DNA鑑定と相まって、今後の再審請求審の焦点になりそうだ。
袴田事件に対するこれまでの司法の対応の冷たさを思えば、確かに大きな前進には違いない。だが、素直に喜べない部分もまだまだ多い。そもそも、DNA鑑定で袴田死刑囚に都合の良い結果が出るとは限らない。それに、鑑定は弁護側の鑑定人だけでなく検察側の鑑定人も担当するから、双方の結果が食い違った場合に裁判所はどういう判断をするだろうか。すぐに再審開始を決定するなんて、甘い見通しは禁物かもしれない。
当の袴田死刑囚は昨年8月以降、姉との面会にも応じていない。長期間の拘禁による精神障害、糖尿病に加え、最近は認知症が疑われている。
小川弁護士は、再審請求とは別に、袴田死刑囚の恩赦を求めていく考えを明らかにした。死刑囚の恩赦には減刑しか前例がなく、刑の免除という形を取ってもらえないか検討しているそうだ。恩赦については、前提となる罪を認めることになるとして否定的な意見もあるが、「一日でも早く拘置所から出すために、一番手っ取り早い方法」と判断した。
冤罪を訴え続けながら半世紀近く身柄を拘束され、30年以上も死刑執行の恐怖と向き合ってきた袴田死刑囚。裁判は裁判として、今は人道上の見地から、とにかく一刻も早く適切な医療を受けてもらいたい。そのための条件整備を強く望む。
再審・無罪が実現したとしても、
奪われた半世紀近くの年月は戻ってはこないけれど、
だからこそ1日も早い事実の解明を望みたい。
同時に、こうした事件が今の私たちにとって、
決して「他人事」とは言えないことも、
しっかりと認識しておく必要があるでしょう。
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