今週号の「マガジン9」には、6月11日の反原発デモを礼賛する記事があふれるのだろうか。確かに、デモのイメージを変え、これまで声を上げてこなかった大勢の人たちを巻き込み、マスコミが無視できないところまで昇華させたパワーは、本当にすごいと思う。自分の意見を主張する一つの方法として、デモの意義を見直させた功績は大きい。現代民主主義の新たな局面を拓いた、と言っても誉めすぎではないかもしれない。
とはいえ、当日、東京・新宿でデモの傍らを行き交っていた「一般の人たち」の反応は、少なくとも私が触れた範囲では必ずしも温かいとは言いがたかった。土曜の夕方、繁華街に繰り出さんとする若者たちの会話は、「なに、あの人たち?」「はんげんぱつ、だって」といった程度で終わり。アルタ前の歩道や横断歩道で警察による通行規制がかけられたこともあって、「目立ちたいだけの奴らが自己満足してるだけじゃん。公の場を占拠させんなよ」なんて声も聞こえてきた。
デモや集会をする権利があることに異論はないし、個々の参加者に非があるわけではないことも分かっている。警察の警備手法に起因するところが大きいのも確かだ。だとしても、批判的な声には謙虚に耳を傾けなければいけない。なぜって、デモに参加している人+賛同する人だけで有権者のかなりの数を占めているのなら、脱原発はすぐにでも実現するのだろうけれど、現実は決してそうではないから。原発をなくすためには、「デモの傍らを行き交う大勢の人たち」に幅広く同意してもらうことが不可欠だからだ。
以前にも書いたが、「原発は危険か」と問われれば、もはや答えは決まっていると思う。反原発を訴える方々の尽力で、その危うさ、もろさの認識が定着したことは間違いない。
問題は、「原発は危ない」が、ただちに「原発はいらない」に結びつかない層が、相当厚く存在することだ。朝日新聞の世論調査によると(かなり誘導的な聞き方とはいえ)、「原発を段階的に減らして将来はやめる」ことに74%が賛成した。半面、定期検査で停止中の原発の再開には、安全対策が達成されれば51%が賛成と答えている(6月14日付朝刊)。こうしたギャップと真摯に向き合い、理由をどう捉え、どうやって引き込んでいくか。今後の反原発・脱原発運動の最大の課題ではないか。
訳あって最近、職安(ハローワーク)に出入りしている(原稿の依頼、歓迎します…)。びっくりするくらい多くの人たちで混雑している。震災や原発事故の影響で工場を稼働できなくなった企業がリストラしているし、夏の電気の使用制限に備えて採用は手控えられているしで、しばらくは雇用情勢に好転の見通しはないようだ。
仕事を探している側からすると、「原発なくしましょう」と呼びかけられたって、簡単に「はい、そうですね」なんて答えられない。原発をなくす→電気の供給が減る、電気代が上がる→企業の活動が鈍る、海外に拠点を移す→国内の雇用が減る→仕事に就けないっていう「負の連鎖」を想起してしまうからだ。仮に原発の危険性を十分に認識しているとしても、仕事を見つけて食っていくことの方が、あした生きていくためには必要不可欠なんだから仕方がない。非難されたって困る。
原発の地元にしたって同じことだろう。危険なことは分かっている。でも、地域経済には原発がしっかりと組み込まれてしまっている。いきなり、それをなくせと言われても、おいそれと「はい、そうですね」とは言えない。あしたの生活が立ちゆかなくなるからだ。実際、原発の稼働や関連工事が止まった青森や静岡では影響が出始めているらしい。
そこまで生活の危機に直面しないにしたって、計画停電が復活するとか電気代が上がるとか、ちょっとでも現実味を帯びて語られれば、不安と不満は募る。本当は杞憂かもしれないけれど、仕方のないことだろう。
「脱原発」って、経済的、心理的な面も含めて、これまでの社会の構造を根本から転換する営みなんだと思う。多くの庶民にとっては、慣れ親しんだ生活からの脱却に踏み切るだけでも相当な覚悟がいるのに、行き着く先で自分の生活がどうなるか分からない、もしかすると今の生活基盤を失う可能性もあるなんて考えれば、原発がなくなった社会への不安は増すばかりなのだ。
先日、週末の終電近くの混雑した電車に乗っていたら、冷房をほとんど効かせてもらえず、乗客は汗まみれになっていた。どこからか、「こんな思いをさせられるんなら、原発あった方がいいよな」なんて酔っ払いの会話が聞こえてきた。今年の夏は、身近なところで「原発が止まっている影響」を実感させられるのだろう。たぶんに原発再開へ向けたプロパガンダと分かってはいても、小さな積み重ねが「原発、仕方ねえじゃん」の声につながっていくような気がしてならない。
脱原発を目指すのならば、そうした不安や不満の原因を探り、一つひとつに対して、分かりやすく解きほぐしていくことが必要なのは言うまでもない。とともに、不安を超えて、いざという時でも安心だと思えるような仕組みを作ること、つまり、セーフティーネットをきめ細かく整えていくことが重要だ。原発がなくなって社会が変わり、その枠から弾き出されることがあったとしても、あなた方は必ず社会が守りますよ。そんなメッセージを制度化することこそが、脱原発を実現する前提条件として何より求められていると思う。
消費税10%を盛り込んだ「税と社会保障の一体改革」を見ていると、「負担は重く、給付は軽く」の方向で進んでいる。権力側がセーフティーネットを整えてくれるなんて、期待はできない。それこそ反原発デモのような手法で、草の根から声を上げていくしかないのだろう。
デモは重要で大きな意義がある。
でも、それだけじゃ原発はなくならない。
多分、そのどちらも本当なのでしょう。
「原発がなくても大丈夫」。
その言葉に、どれだけ重みを持たせられるのか。
それが今、問われているのかもしれません。