4月24日に投開票された統一地方選の後半戦、原子力発電所や関連施設が立地する市町村の選挙で「原発の存廃」は目立った争点にならなかった。
たとえば、福井県敦賀市長選は4候補全員が「原発と共存」。新潟県柏崎市議選も、多くの候補が「増設は封印するけれど原発は推進・容認」だった。青森県六ケ所村議選では「反原子力」を掲げる候補者はいなかった(朝日・毎日・読売新聞、4月25日付・同18日付朝刊)。原発立地による交付金の使途や安全対策について論戦が交わされることはあっても、原発と共生することの是非自体が問い直されることはなかったようだ。
福島であれほどの原発事故が起きたばかりなのに、なぜ? 結局、命より金なのか…。将来、被害を受けたって自己責任だぜ--。正直に言うと、最初はそう思った。
でも、原発立地の是非を争点にした住民投票や首長選挙など過去の取材経験を思い返して、ものすごく反省した。そうした市町村に「シャブ漬け」のような原発依存体質を押しつけたのは誰だったのか。改めて考えるうち、刃はブーメランのように自分にはね返ってきたからだ。
原発を造るにあたって、電力会社は過疎化が進む自治体を狙う。その中でも寂れた地域を建設地点に選ぶ。地元住民に高値で土地買収を持ちかけつつ、首長や商工関係者らに経済効果や雇用を打ち出して説得に入る。もちろん、最初はみんな安全性を心配している。でも、1次産業主体の市町村が「皆さんの子どもたちが、よそへ行かずに働けます。工事や資材の発注は地元優先ですし、従業員も買い物をします。税収も増えますよ」なんて言われたら、心を動かされる。
国の支援も厚い。原発の立地によって、周辺自治体や県にまで各種交付金・補助金が渡される。火力、水力を含めた「電源立地地域対策交付金」だけで今年度予算に約1100億円を計上しており、当然、原発への比重が高い。名目は「国策に協力する見返り」。国も一体になって受け入れを迫るのだ。「絶対安全」の枕詞とともに。
そもそも、工場なんか来てくれないような不便な場所が多いから、話を持ちかけられた側はむやみに断れない。原発建設が取りざたされた自治体の議員に「このまちを残すために、ほかに良い方法があるなら教えてほしい」と開き直り気味に言われたことを思い出す。
原発を受け入れてしまえば、後は依存体質を深めるばかりだ。お国のために共存しているのだから、後ろめたいことは何もない。少し古い記事になるが、原発が立地する市町村の中には、固定資産税・法人税などの原発関連税収が一般会計の半分以上を占めているところや、原発関連の交付金・補助金の累計が500億円を超えたところもあるそうだ(朝日新聞・08年7月20日付朝刊)。地方交付税を受けていない自治体が目立ち、「平成の大合併」にも無縁な市町村が多かった。そして、お金に困れば、原発の増設で確保しようとする循環が始まる。クスリと同じですね。
語り尽くされたことだが、田舎にある原発がおこした電気を使うのは、都会で暮らす私たちである。自分たちから見えない場所に押しやりつつ、たっぷりと電気の恩恵を享受するために、田舎が原発への依存度を高めれば高めるほど好都合だった。その条件として持って行ったのが、交付金であり雇用だ。しかし、厳然と内包された「危険」という概念に対して、互いに見ないふりをしていたからこそ成立した取引ではあった。大きな事故が起きたいま、「毒饅頭」だったことが白日の下にさらされた。
現地で交渉するのは電力会社だし、交付金を出してきたのは国だったが、都会の私たちも黙認してきた責任を免れまい。15年前、新潟県巻町(当時)で原発建設の是非を問う住民投票が行われて「反対」が多数を占めた時、権力側や一部の全国紙、学者が向けた批判を決して忘れない。「地域エゴだ」と。「原発が特定の地域の住民の意向で設置できなくなると国全体の利益が損なわれる恐れもある」なんて記事も出た。少なからぬ都会の民が、消極的にであれ、その発想に違和感を抱かなかったのも、また事実だろう。都会は田舎に、受け入れさせるべくして原発を受け入れさせてきたのだ。
「原発は危ないか」と問われれば、もはや答えは決まっている。でも、誤解を恐れずに言えば、だからといって原発の停止・廃止を「叫ぶだけ」というのは、都会人のエゴである。少なくとも、原発と共生せざるを得なかった人たちの存在を無視してはならない。長いこと札びらを切って引き受けさせておきながら、「事故が起きたから廃止しますので、もうお金は出しません」では、あまりに身勝手だ。交付金の額は発電量などで決まるため、停止しただけで地元自治体はすぐに干上がってしまう。毒饅頭とはっきりしてもなお、原発に頼らないではいられない。
原発をなくすことによってライフスタイルの変化を強いられるのは、都会に暮らす私たちだけではない。原発の地元がどう生きていけば良いのか、代案を示し納得してもらう責任が都会の人間にはある。少数派だからと言って、田舎をバッサリ切り捨てることがあっては絶対にいけない。そこまで目配りをした「脱原発論」でありたい。
原発のある地域で、
「現状維持」を主張する候補が相次いで当選――なんてニュースを聞くと、
「この期に及んで、なんで!?」という思いが浮かぶのも正直なところ。
けれど、そうした選択をせざるを得ない状況を押しつけてきたのは、
そもそもいったい誰だったのか。
そこを追及することなしに、地方の選択を非難する資格は、都会にはない。
「脱原発」を叫ぶときに、絶対に見落としてはならない視点です。