確か統一地方選挙ってのが始まってたはずなんだけど、もう終わったのかい? そう尋ねてしまいそうになるほど、東京では選挙が盛り上がらない。このままだと投票率は相当低くなるだろう。
選挙での自粛はとてもヤバい。どんな状況で行われたにせよ、選ばれた側にとっては正当な手続きを踏んでいるからである。有権者が「あの時は自粛されてて選挙をやっているなんて知らなかったので投票に行かなかった」とか「自粛で主張がよくわからないまま投票した」とか言い訳したって後の祭りだ。例えば、「原発推進論者」と震災後に公言した方が東京都知事に当選してしまえば、東京湾に原発を誘致された時にいくら反対しても「原発推進って言ったオレを選んだのは皆さんでしょ」と居直られるのがオチである。
選挙には、ある種のムードが不可欠だ。選挙カーの声を聞いて「うるせえな。でも選挙やってんだな」と気づき、小耳に挟んだ街頭演説や駅前でもらったビラで「こんなこと主張してんだ」と認識する。そして、家庭や飲み屋での会話、ネット、テレビ・新聞なんかを参考に意中の候補を決める、というプロセスだろう。
被災していない場所では、候補者も臆せずに政策を連呼して回ってほしい。東京都知事選なら「原発ノーの○○です」「築地市場移転反対の××です」、あるいは新銀行東京、東京オリンピックとテーマは多い。ワンフレーズでいいから、自分が何を第一に訴えているのかだけは、どんどんアピールしてほしい。「選挙運動を自粛しないと有権者に嫌われる」と心配しているのかもしれないけれど、それだけで嫌うような人は、そもそもあなたには入れないって。
震災の直後、3月16日更新の当コラムで「こんな時だからこそ、直接大きな被害を受けなかった地域では、可能な限り通常の生活を送れることが大切だ」と書いた。「震災を対岸の火事としか捉えていない」なんて批判も頂戴したが、ようやく最近になって同様の論調が多く見受けられるようになってきた。被災しなかった人たちに余裕がなければ、被災地への支援に力が入らないし、長続きしない。ムダ遣いはやめるにしたって「まわりがやっているから」「クレームを受けたくないから」といった類の自粛はするべきでない。
選挙の場合は、まだいい。有権者がその気になれば、自分で情報を集められるのだから。震災後の数ある自粛の中で、私が最もあきれ腹が立ったのは、東京の目黒区美術館が4月9日〜5月29日に予定していた「原爆を視る 1945−1970」展の中止だ。
この展覧会は、表現者たちが原爆投下をテーマにどんな作品を創り、見る側がどう受けとめてきたかを検証しようと企画された。芸術を通して、原爆が戦後の日本に与えた影響を見つめ直す狙いだったという。1945〜70年に制作された絵画、写真、ポスター、漫画など600点の展示を予定。広島、長崎の原爆資料館や丸木美術館、被爆者団体に作品貸し出しなどの協力を受けていた。
ところが、震災後、原子力発電所で大事故が起こり、美術館を運営する目黒区芸術文化振興財団が中止を決めた。美術館のホームページには中止の理由として「大震災の惨状や原発事故による深刻な影響を受けている多くの方々の心情等に配慮いたしまして」と記されているが、同財団は取材に対し「展覧会の趣旨は震災と無関係だが、イメージ的には原発事故などと重なる部分もあり、この時期にはふさわしくないと判断した」(毎日新聞・3月25日付夕刊)と説明している。
決定に至るまでには、開催を望む美術館側と、中止を求める財団側で議論があったようだ。3月24日付・中国新聞朝刊は「財団理事でもある館長は『被爆からどう復興してきたかを知る意味でも意義は大きい』と開催を主張した。これに対し、他の理事からは『放射能汚染に敏感になっており、鑑賞に来る気になるのか』という意見が多く、中止を決めた」と経過を伝えている。ちなみに、財団の理事は、館長のほか、地元の経済人や学者ら計10人。
中止は過剰反応としか思えない。「この時期にはふさわしくない」と言うが、館長の意見のように、原発事故からどう復興していくかを学ぶという面に着目すれば、極めて時宜を得ている。「鑑賞に来る気になるのか」との心配は全く不要。この時期だからこそ、かなりの来場者を集めたことは間違いない。「被災者の心情」にしたって、目の前で起きている福島第一原発の事故の映像ほど放射能の恐ろしさを十二分に見せつけたものはないわけで、もはや、ちょっとやそっとのことでは誰も驚かないし、怒らないですよ。
漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんは「今こそ開催すべき展覧会なのに、いかにもお役所的発想だ。福島などの被災者に気を配ることと、原爆について考えることは別だと思う」とコメントしている(毎日新聞・同上)。その通りだと思う。
目黒区美術館といえば、2年前に開かれた写真家・石内都さんの作品展が印象に残っている。天井が高く広々とした空間を生かし、広島原爆の被爆者が着けていた衣類や装身具などの写真を、たおやかに、おどろおどろしさを感じさせることなく見せていた。それが日常性や生活感を醸し出していて、原爆をリアルに受けとめることができた。おそらく今回の原爆展にも、そんな工夫が凝らされていたことだろう。本当に残念である。
それにしても、新聞各紙はこの問題をまともに記事にしていない。広島という土地柄からか、いち早く報じた中国新聞の感度はさすがだが、全国紙のうち社会面に載せたのは毎日(上記)のみで、ベタ記事。朝日は3月30日付・夕刊文化面で地味に扱い、読売や日経に至っては「美術展が相次ぎ中止」の一コマとして触れただけだ。今日の自粛社会を象徴する出来事で、しかも原発・原爆や表現の自由にかかわる重要なニュースだと思うんだけど。
先日、全国紙の社会部記者と話していたら、震災一色の最近の社会面について「読者も読む気がしなくなっているんじゃないかな」と漏らしていた。被災地の現状を伝える報道が大切なのはよく分かる。でも、毎日ワンパターンの作りであれだけ大量に流されたら食傷気味になる。長丁場で伝えていくテーマだからこそ、読んでもらうためにはメリハリが必要なのだ。
東京都知事選もそうだし、震災直前に閣議決定されたコンピュータ監視法、1票の格差判決を受けた国会議員の定数是正等々、いま社会面で伝えなければいけない大事な話はたくさんある。マスコミがきちんと取り上げないというのは、権力者が震災後のドサクサに紛れてヘンテコな決定をするのに手を貸すに等しい。問題意識とバランス感覚が問われている。
普通に生活していても、
どうしても意識が「震災」や「原発」に行ってしまいがちな毎日。
でも、そこにだけ気を取られている間に、
さまざまなことが悪い方向へ進んでいくことだけは、
なんとしてでも阻止したい。
「ここから、どんな社会にしていくのか」を考えるべき今だからこそ、
伝えなくてはならないこと、知らなくてはならないことはたくさんあります。