新聞記者と言えば、所属する会社の内外を問わず「自由に取材し、自由に執筆し、自由に発言している」というイメージが強いのではないか。
いつの頃からだろうか。どの新聞社でも、記者が自由に行動・発言・執筆することに対して、有形無形の圧力が強くなっている。ある新聞社(仮に「A新聞」としておこう)で、この春、記者の社外言論活動を厳しく制約する規則が定められたと聞き、ツテを頼って関係資料を入手した。
一読して驚く。これを「言論統制」と言わずして何と言うのか。こんな中味である。
社外の媒体に執筆したり、社外で講演したりする時は、依頼を受けた段階で上司に届けなければならない。それが、現在の本人の業務に関連していたり、過去の業務で取得した知識や情報が主な内容になっていたりすれば、「職務」と認定され、引き受けるには上司の許可がいる。「職務」なら原稿料や謝礼などの対価は一切受け取ってはならず、全額を会社に入金する−−。
記者の仕事では本来、「職務」かどうかの境界は相当に曖昧である。例えば、休みの日に出席を依頼されたシンポジウム。しかし、この規則によれば、テーマが直接の自分の担当分野でなくても「今の業務に関係する」と言おうと思えばこじつけられるし、過去に少しでも取材したことがある案件なら簡単に「職務」にされてしまう。理由は後づけで、いくらでも「職務」にできるのだ。この会社、ご丁寧に「職務」にあたるケース、あたらないケースを計20項目ほど例示しているが、それを見ても線引きはよく分からない。
最も問題なのは、ここからだ。「職務」であれば、当然、上司の監督が及ぶ。例えば、上司が原稿や講演の依頼元を気に入らなければ、「ほかに優先すべき仕事がある」とか、もっともらしい理由をつけて記者に断らせることができる。たとえ執筆できたとしても、「職務」だから、事前に原稿をチェックして「こう書け」「その書き方はダメだ」と内容に介入することも可能である。
実際に、現場では影響が出ているようだ。ある雑誌編集者が最近、A新聞社の記者に原稿を依頼した。当の記者は前向きだったが、上司に相談したところ「そんなことをやっている時間はないだろう」と言われたとかで、結局、断ってきたという。こうした規則ができることで、「社内の手続きが面倒だ」と躊躇させる、心理面への抑制は大きいだろう。
A新聞社には以前から社外言論活動の規則はあったらしいが、会社に損害を与える内容や政治・宗教活動でない限りは、了承される原則だったという。そもそも、現場では規則自体が有名無実化していたらしい。
ちなみに、他の新聞社も同様の規則を設けているようだが、ライバルのB新聞社では「他誌に書くのをそれほど厳しく制限していない」(中堅幹部)、C新聞社では「事前に会社の許可を得る必要があるけれど、自分の申請が通らなかっ たことは一度もないし、講演やテレビ出演は届ける必要がない」(ベテラン記者)と、A新聞社の規則ほど厳しい実態はないようだ。
では、なぜ今、新たな規則ができるのか。A新聞社の説明資料は、今後、電子メディアなどグループ企業への出稿促進や系列テレビ局との連携強化で、社外へ発信する機会が増えることを理由に挙げている。要は、グループ・系列企業の仕事には原稿料などの経費がかからないようにしたい、ということらしい。でも、それなら「グループ・系列企業の媒体に発信する時は『職務』で、原稿料なし」とだけ決めれば良いことだ。
元毎日新聞記者で週刊金曜日編集長の北村肇氏の新刊『新聞新生』(現代人文社)に、新聞社の現状に触れた、こんな記述があった。「コンプライアンスという名の下で、職場の『統制』が進んでいる。危機管理と称して、外部活動が禁止・規制され、社によっては市民運動からの強制的隔絶がルール化されている実態がある」
「お前ら、静かに社内の媒体にだけ書いていればいいんだ。余計な行動や発言をして、会社に迷惑をかけないでくれ」。A新聞社の規則に、私はそんな意図を感じる。とにかく、会社にとってのトラブルの芽を摘んでおきたいのだ。
でもね、新聞社をはじめマスコミは、何かと言えば「市民の代表として取材している」と謳ってきた。そうやって、取材を受けたくない権力者にアプローチしてきた。正論である。そうであるならこそ、取材で得た情報は、市民全体で共有すべきものだ。自社の媒体で報じられなくても、他の媒体で伝える機会があるのなら、できる限りそこで広く知らせるのが本来の姿だろう。
北村氏は、こうも書いている。「新聞社は言論機関である。報道の自由、言論の自由、思想・信条の自由を守るために日々努力すべき企業が社内民主主義を認めないとあってはマンガだ」「市民社会との交わりをもつことなく、ジャーナリズム活動を行うことが可能なのか、その議論は置き去りにされたまま、結果として新聞記者は社会と遊離してきている」。噛みしめたい。
「社会と遊離したジャーナリスト」。
なんとも論理矛盾、としか言いようのない言葉が、
ぴたりと当てはまってしまう状況。
新聞の「部数低迷」が伝えられる理由は、
こんなところにもあるのかも?