B級記者どん・わんたろうが「ちょっと吠えてみました」

 最高裁の確定判決は死刑ではあるが、1審判決は無罪だった。7年前にはいったん、死刑判決を見直すための再審開始決定も出ている。それぞれ3人の裁判官の合議による結論なので、仮に評議の結果がともに2対1だったとしても、少なくとも計4人の裁判官が無罪と判断しているのだ。
 起訴されれば有罪率99%以上の日本で、これってすごい数字ではないだろうか。ほとんどの事件で検察官の主張を鵜呑みにしてしまう職業裁判官をして、有罪=死刑判決に少なからぬ疑念を抱かせているわけなのだから。
 5月25日に名古屋高裁で再審請求が棄却された「名張毒ブドウ酒事件」である。この事件の裁判の紆余曲折をたどると、日本の刑事司法の問題点の多くが浮き彫りになると言える。弁護団に加わっている弁護士の話を聞く機会があったので、経緯を振り返りながら考えてみたい。
 事件が起きたのは、半世紀前の1961年3月のことだ。三重県名張市の公民館で地元住民の懇親会が開かれた際、ブドウ酒を飲んだ女性5人が死亡し、12人が中毒症状を負った。ブドウ酒には農薬が混入されていた。35歳だった奥西勝死刑囚(86)は5日後に犯行を「自白」し、殺人などの容疑で逮捕される。死亡した5人の中に妻と愛人がおり、三角関係の清算が動機とされた。
 逮捕前の任意聴取の段階から、相当に無理な取り調べが行われたという。奥西死刑囚は自白を撤回し、裁判では一貫して無実を訴えた。
 1審の津地裁は1964年、①ブドウ酒の瓶の王冠を歯で開けたという奥西死刑囚の自白を裏付けた歯型鑑定には疑問がある、②他の人物にも農薬を混入できる機会があった、③自白には変遷や矛盾があり信用できない、として無罪を言い渡した。
 これに対して、2審の名古屋高裁は69年、いずれについても反対に解釈し、一転、死刑判決を出す。最高裁も上告を棄却し、72年に確定した。無罪から死刑へ、他に例を見ない大どんでん返しが、この裁判の最初の大きなポイントだった。
 ちなみに、王冠の傷痕と奥西死刑囚の歯型が一致するとした歯型鑑定については、第5次再審請求で、写真の倍率を操作して一致させた「捏造」だったことが分かっている。
 で、第2の大きなポイントが、今回の第7次再審請求である。
 弁護団は、実際にブドウ酒に混入された農薬は、奥西死刑囚が使用したと「自白」した農薬(以後、「農薬X」と呼ぶ)とは違う、とする鑑定結果を提出した。奥西死刑囚は他の農薬を所持していなかったので、犯人でないことの証明になる。また5次請求で、ブドウ酒の瓶の封かん紙が発見された公民館が犯行(農薬混入)の場所と判断されたことから、封かん紙を破らなくても開栓して農薬を混入できるとする実験結果を示した。つまり、公民館でなくても農薬混入は可能で、奥西死刑囚以外にも犯行の機会があったことを立証したのだ。
 再審請求の1審にあたる名古屋高裁は2005年4月、これらを「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」と認め、再審開始と刑の執行停止を決定した。ところが、検察の異議を受けて、2審にあたる名古屋高裁の別の部が決定を取り消し、再審請求を棄却してしまう。1年8カ月後のことだった。
 紆余曲折は続く。奥西死刑囚の特別抗告を受けた最高裁は2年前、再審請求を棄却した高裁決定を破棄し、さらに審理を尽くす必要があるとして名古屋高裁に差し戻したのだ。犯行に使用されたのが「農薬X」だとした判断に対し、「科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、その推論過程に誤りがある疑いがある」と述べた。再審請求を棄却した高裁決定が、いかに不十分な根拠で死刑判決を維持しようとしていたかが露呈してしまった。
 それを受けて出されたのが、5月25日の高裁決定である。
 7次請求にあたって弁護団は、事件直後の三重県衛生研究所の成分分析で、犯行に使われた毒ブドウ酒(事件検体)と、市販の「農薬X」を市販の同じブドウ酒に混ぜたもの(対照検体)を比較した結果、対照検体からは検出されたのに事件検体からは出ていない正体不明の物質があることに着目した。製造中止になっていた「農薬X」を探し出すなどして独自に専門家に分析してもらい、「正体不明の物質」はトリエチルピロホスフェート(以後、「物質A」と呼ぶ)であると分かった、との鑑定結果を提出していた。
 加えて、「物質A」は加水分解が遅いので、混入されたのが「農薬X」であるなら事件検体から検出されないのはおかしいことや、「農薬X」と同種の他の農薬には「物質A」が含まれていないものがあることも調べ、犯行に使われたのは「農薬X」ではなく別の農薬である、と主張した。
 差し戻し後の名古屋高裁での審理では、「農薬X」のメーカーに当時の製法を基に新たに製造してもらい、弁護団が入手していた当時の「農薬X」と併せて、裁判所が選んだ鑑定人が成分分析を実施した。これにより、正体不明の物質は弁護団が主張する通り「物質A」であることと、「農薬X」には「物質A」が約25%も含まれていることが明らかになった。弁護団に有利な鑑定結果、とも見られていた。
 しかし、高裁はあっさりと再審請求を棄却した。
 成分分析の過程で、エーテル抽出をする前に検出されていた「物質A」が、エーテル抽出した後には検出されなかったことを重視。エーテル抽出をしたうえで行われた事件当時の成分分析で、事件検体から「物質A」が検出されなかったことが、「エーテル抽出前の事件検体に『物質A』が含まれていないことを意味するものではない」と理屈づけてしまった。
 事件検体から「物質A」が検出されなかったことについては、「農薬X」に少量含まれている別の物質(「物質B」と呼ぶ)を取り上げ、①対照検体では「物質B」がエーテル抽出されて加水分解したことにより「物質A」を生成した、②逆に事件検体では「物質B」が成分分析までの1~2日間で加水分解によって失われていたため「物質A」の生成に至らなかった、と独自の「推論」を展開した。
 そのうえで、犯行に使われたのが「農薬X」であることと、事件検体から「物質A」が検出されなかったことは矛盾しないと断定。「奥西死刑囚以外にブドウ酒に農薬を混入し得た者はいないとの判断はいささかも動かず、逮捕前から具体性をもって始められた自白が、その供述経過や関係証拠に照らし、根幹部分において十分信用できる」と述べた。
 弁護団によると、事件検体から「物質A」が検出されなかった理由に触れた「推論」の部分は、検察さえ主張していなかったことだという。野嶋真人弁護士は「化学の素人の裁判官が、推測で作り上げた砂上の楼閣。弁護団に反証の機会さえ与えなかった」と強く批判。さらに「裁判官は『自白』があることで有罪の心証を持ち、思い込みで証拠を見て、ねじ曲げて解釈している」とも指摘していた。裁判の経緯からすると、もっともな受けとめだと思う。
 奥西死刑囚は再審棄却決定の2日後、肺炎をこじらせて外部の病院に入院した。そこでは、ベッドに寝たまま24時間、手錠を掛けられていた。弁護団の抗議に対して、名古屋拘置所は「護送中だから」と答えたそうだ。その後、医療刑務所に移送されたが、口から飲食できない状態が続いているという。野嶋弁護士や支援者は「時間の壁を感じる。残された時間はわずかだが、ここで引き下がるわけにはいかない」と異口同音に語っていた。
 奥西死刑囚は、今回の決定を不服として最高裁へ特別抗告している。有罪の根拠は崩れており、少なくともすでに「疑わしきは罰せず」に該当するのは明らかだろう。最高裁には、死刑事件の再審を認めたくないなどという面子にとらわれることなく、一刻も早く再審開始の決定をするよう強く訴えたい。

 

  

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第96回 一度は無罪判決を受けた86歳の死刑囚は、
病床で手錠につながれていた
~「名張毒ブドウ酒事件」から見えてくること
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    真実を闇に葬ってしまうとともに、
    囚われた人の人生を大きく狂わせてしまう冤罪事件。
    この「名張毒ブドウ酒事件」でも、
    「第七次」再審請求の言葉に、
    そこに費やされてきた長い長い年月を思わずにいられません。
    失われた時間は決して戻ってこないけれど、
    だからこそ迅速で誠実な判断が求められるはずです。

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どん・わんたろう

どん・わんたろう:約20年間、現場一筋で幅広いジャンルを地道に取材し、「B級記者」を自認する。 派手なスクープや社内の出世には縁がないが、どんな原稿にも、きっちり気持ちを込めるのを身上にしている。関心のあるテーマは、憲法を中心に、基地問題や地方自治、冤罪など。 「犬になること」にあこがれ、ペンネームは仲良しだった犬の名にちなむ。「しごと」募集中。

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