死刑はない方がいい。でも、実際には法律で規定され、合法的に存在している。そして、「世論の支持」が維持の大きな根拠にされている。覆すためには、やみくもに廃止を叫ぶだけでは足りないことを、残念ながら受けとめなければなるまい。
3月29日、3人の死刑が執行された。国内では1年8カ月ぶりのことだ。昨年は19年ぶりに執行ゼロだったから、逆流が始まったと言えるだろう。小川法相、これからどんどん執行命令書にサインしそうである。
死刑廃止の声を広げていくのは、至難の業になるかもしれない。どうすればいいのか。海外の事例にヒントを得てみようと思う。
まさに今回の死刑が執行される2日前、アムネスティ・インターナショナルが「2011年の死刑判決と死刑執行」と題した報告書を発表した。世界の198カ国のうち、死刑を廃止したり、10年以上執行していなかったりする「法律上・事実上の死刑廃止国」が141で、全体の7割を超えている。国連加盟国(193カ国)のうち9割の175カ国で、昨年1年間、死刑の執行がなかった。
死刑存置国は57だが、このうち執行をしたのは20カ国。公的な統計が入手できない中国を除くと、少なくとも676人に執行され、前年より149人増えた。イランやイラク、サウジアラビアでの増加が原因で、アメリカ、イエメンを加えた5か国で全体の88%を占めている。数千人に執行しているとみられる中国を合わせ、ごく限られた国が大量の死刑執行を続けているわけだ。
アメリカでは昨年3月にオバマ大統領の地元のイリノイ州で死刑廃止法が成立し、16番目の廃止州になった。死刑を存置している州を含めて、50州のうち37州で昨年1年間、執行がなかった。執行されたのは全米で43人だが、10年前に比べると3分の2に減り、死刑判決を受けたのは78人で同じく半分になった。中国でも刑法が改正され、死刑が適用可能とされていた68の犯罪のうち13が除外されたそうだ(ただし、新たに2つの罪への死刑適用が可能に)。
アムネスティ日本は「世界的に見て死刑廃止の潮流は変わらない」と分析していた。
報告書を発表する記者会見では、最近、死刑廃止へと舵を切ったモンゴルの事例が紹介された。2010年初めにエルベグドルジ大統領が「死刑の執行停止」を国会で宣言。今年1月に死刑廃止条約が批准され、3月に正式に加入した。来年中にも死刑廃止が実現する見通しだ。
会見に同席したフレルバータル駐日大使によると、モンゴルでは1920年代に社会主義国になる際、反対した3万人が死刑になったという。当時の国民の5%にもあたる数で、身近な人が処刑されたケースも多く、「国民がその苦しみをいまだに忘れておらず、繰り返してはいけないという気持ちが強い」。さらに、90年の民主化にあたって、「最大のテーマが人権、つまり生きていく権利の尊重だった」こともあり、民主化のリーダーだった現大統領が決断したという。
当初は国民の間に「ひどい犯罪者は相応の責任を取るべきだ」といった廃止反対論も根強く、大統領が宣言した段階の世論調査では、廃止反対が8割だった。しかし、国民への説明を続けた結果、昨年11月には廃止反対が4割まで減ったそうだ。大使は「反発はあっても、理由を正しく説明すれば国民は納得する。政治家が勇気と希望を持って闘わないと実現できない。リーダーシップが大事だ」と強調していた。
実は、世論の多数派が「死刑廃止」でなくても、死刑を廃止した国は多い。少し前になるが、毎日新聞(2010年11月23日付朝刊)にこんな記事があった。「死刑が廃止か停止されている世界の3分の2の国で、『有権者の大半を喜ばすために死刑を廃止するなどということは、起きたこともないし、あり得ない』(仏社会学者ガイヤール博士)」
たとえば、1981年に死刑廃止に踏み切ったフランスの場合、世論は死刑維持に賛成6割、反対3割だったにもかかわらず、ミッテラン大統領は死刑廃止論者を法相に起用し、政治のリーダーシップで断行したという。99年に賛否が並ぶまで死刑廃止への賛成が反対を上回ったことはなかったが、その後、廃止が多数を占め、2007年には国会の圧倒的な賛成多数で憲法に死刑廃止が明記された。
記事は「他の西欧諸国も、ファシズムによる大量処刑の反省(ドイツ)など、廃止のきっかけはまちまちだが、議論を基に政治が断行し、世論がためらいながら後を追う流れは共通している」と記している。
背景にあるのは、人権意識だ。阿部浩己・神奈川大法科大学院教授(国際人権法)は昨夏の講演で、「生命権や拷問・非人道的刑罰の視点から『死刑は基本的人権の侵害』という認識が広がった。世論が支持していても人権侵害は許されない、という考え方が定着している」と話していた。
さて、日本である。
死刑維持の錦の御旗のように使われているのが、内閣府が2009年に実施した世論調査の結果だ。三つの選択肢を示して尋ねたところ、「場合によっては死刑もやむを得ない」(容認派)が85.6%、「どんな場合でも死刑は廃止すべきだ」(廃止派)が5.7%だった。もっとも、容認派の中には「状況が変われば廃止してもよい」と答えた人も34.2%いるのだが。
今回の死刑執行の後、野田首相は記者会見でこの世論調査の結果を最初に挙げて、「(死刑制度を)直ちに廃止することは困難だと認識している」と語っている(読売新聞・3月31日付朝刊)。
しかし、ここまで取り上げてきたように、世論を理由に死刑廃止の議論を避けること自体が、国際的な流れに逆行している。日本政府は2008年に国連の委員会から「世論調査の結果とは関係なく、死刑制度の撤廃を前向きに検討し、国民にも廃止が望ましいことを知らせるべきだ」と勧告されてもいる。
今回の死刑執行に先立ち、小川法相は法務省内に設置されていた「死刑の在り方についての勉強会」を廃止してしまった。世論が死刑に賛成しているのだから、議論は不要と考えているようだ。政治が取るべきリーダーシップから身をかわすため世論に責任を転嫁している、と言っていい。
死刑の存廃は、もはや「国内問題」で突っぱねられる段階ではないと思う。死刑を続けていることで、人権意識の希薄な「野蛮な国」とみなされ、外交や国際ビジネスに影響する日が来るかもしれない。政府は国際的な潮流を含め、死刑に関する正しい情報を幅広く国民に公開するとともに、もっと積極的に問題提起や議論の喚起をすべきだ。
国民の側も、世論が時にもろく、危険なことを改めて認識したい。
3月15日には、2審でいったん死刑判決を受けた男性被告が、差し戻し後の大阪地裁で無罪を言い渡された。誤判の防止は死刑事件に限らず刑事裁判全体の課題ではあるが、誰だって冤罪に巻き込まれて死刑判決を受けないとも限らないのだ。一般の人が直面する可能性があるのは、身内や知人が被害を受ける場合だけではない。両方の視点から、自分自身の問題として考えることが必要である。
今回の死刑執行にあたって小川法相は、
「死刑は国民から支持されている」と繰り返しました。
しかし、その前提となるべき情報公開と議論が、
十分に果たされているとはどうしても思えません。
「海外が廃止したから日本もすべき」とは言えないけれど、
短絡的に「支持されている」で終わらせていい話でないことは、
少なくとも明らかなのではないでしょうか。