下山、三鷹、松川――。この3つの言葉を聞いて何のことかすぐに答えられる方は、もはやそう多くはないのかもしれない。
敗戦間もない1949(昭和24)年に、日本国有鉄道(国鉄、今のJR)をめぐって相次いで起きた「鉄道三大事件」である。学校の授業で戦後のことを教わる機会は少ないし、語り継ぐ当事者たちが少なくなっている事情もあるから、世の記憶から遠ざかっていくのもやむを得まい。
3つの事件の中で、容疑者の有罪が確定したのは三鷹事件だけだった。しかも、起訴された10人のうち9人が無罪になり、有罪の1人は死刑、という異例の展開をたどった。有罪とされた竹内景助・元死刑囚は冤罪を訴え再審請求したが、東京高裁が予備審査に入った段階の1967年、脳腫瘍のため拘置所で死去した。45歳だった。
竹内元死刑囚の長男が改めて第2次再審を申し立てたのは、死後45年近くが経った昨年11月のことだ。マスコミの扱いは地味だったので、あまり知られていないのではないか。1月19日に東京・吉祥寺で開かれた支援集会で関係者の話を聞き、事件の問題点や再審請求のポイント、今日に通じる教訓を学んできた。
三鷹事件とは、どんな事件だったのだろう。
1949年7月15日の夜、東京の国鉄三鷹駅構内で、車庫から無人の電車が突然、暴走を始める。7両編成の電車は脱線し、民家や交番に衝突して転覆。利用客や市民がはねられ、死者6人、負傷者20人の惨事となった。当時、国鉄では大規模な人員整理が進められており、これに反対していた国鉄労働組合の組合員10人が電車転覆致死罪で逮捕・起訴された。
1審の東京地裁は、10人の中で唯一、共産党員でなかった竹内元死刑囚の単独犯行と断じて無期懲役を言い渡し、9人を無罪にした。2審の東京高裁も単独犯行を支持したうえで、死刑に。最高裁は1955年、口頭弁論を開かないまま8対7で上告を棄却して、刑が確定した。再審請求も、本人の死亡を理由に東京高裁が手続き終了を決定。以後40年余、三鷹事件が社会の関心を集めることはなかった。
集会で報告した弁護団によると、そもそも単独犯行だったのかどうか、現場の状況から疑問だという。判決では、運転士だった竹内元死刑囚は運転台の速度制御装置を駅構内で拾ってきた針金で開錠し、そのハンドルを紙ひもで固定するなどの細工を施したうえで、発車直前に飛び降りたとされている。
再審請求にあたって、暴走した電車の構造や破壊状況から「単独犯行は不可能」と分析する鉄道工学の専門家の鑑定が得られた。また、パンタグラフは7両のうち先頭車両だけ上げたと認定されたが、先頭車両の操作だけでは上げられないはずの「2両目のパンタグラフも上がっていた」との目撃者がいるそうだ。
竹内元死刑囚のアリバイも、もとの裁判では十分に検証されなかったらしい。当時、竹内元死刑囚は電車区の共同浴場に入っていて、事件の影響で停電した時に会話をしたという同僚の証言があった。一方で「事件現場付近で竹内さんを見た」とする目撃者もいたが、この晩は月がなかったことがわかり、当時なら真っ暗で信用できないうえ、「その目撃者から『警察に言わされた』と聞いた」との証言もあるという。
何より、竹内元死刑囚の自白は変転が激しい。逮捕当初は全面否認だったのが、捜査が進むにつれて単独犯行に、そして共同犯行に変わる。このことだけでも自白には信用性が欠けており、刑事事件に詳しい弁護士からすると「むしろ冤罪の証明」だそうだ。竹内元死刑囚の書簡の記述から、弁護団は「長期にわたる脅迫的な取り調べがあった」とみている。自白偏重による冤罪事件に共通する現象ですね。ちなみに、竹内元死刑囚の公判での供述も二転三転し、上告して以降は一貫して無罪を訴え続けている。
再審請求にあたり弁護団は、こうした主張を裏付けるべく、上述した鑑定書や証言を中心に28点を新証拠として東京高裁に提出した。今後、種々の目撃者の捜査段階での供述調書や、電車の装置の鑑識報告書などについて、検察に証拠開示を求めていく方針だ。
三鷹事件を語るうえで、時代の背景も無視できない。事件発生は朝鮮戦争が勃発する前年のこと。東西冷戦を受けて占領下の国内でも、勢力を伸ばしつつあった共産党への圧力が強まっていた。連合国軍総司令部(GHQ)の謀略による事件だとする説が、根強く語られるゆえんである。
検察側は共産党員の共同犯行にしようと画策したが、1審判決が「空中楼閣」と批判したように、あまりに無理な筋書きだったため維持できなくなった。穿った見方かもしれないが、党員でなかった竹内元死刑囚が途中で単独犯行を供述したこともあり、全員が無罪になることだけは避けたい検察側、まずは党員が関与していないことを証明したい共産党側の双方にとって好都合な落としどころだった、とは言えまいか。
党員だった他の9被告に比べて、竹内元死刑囚は必ずしも十分な弁護を受けられなかったとの指摘もある。これまで再審請求の動きがなかったのも、竹内元死刑囚が最後に信頼を寄せた弁護士が上告審の途中で亡くなって以降、熱心に取り組む弁護士が現れなかったからのようだ。
竹内元死刑囚の長男は再審請求に際して、「母親が亡くなった後は、社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無罪を信じながら、再審を申し立てることなど、とても出来ませんでした」とコメントしている。ようやく弁護団が編成され、支援の輪も着実に広がってきた。事件発生から62年が経つだけに、真相解明には多くの壁が立ちはだかっているに違いないが、これが最後のチャンスであろうことも、また事実だ。遺族の気持ちを、そして竹内元死刑囚の遺志を汲んで、十分な審理が実現するように望みたい。
もう一つ。集会で講演した映画監督・作家の森達也さんは「今の状況へのつながりがとても深い事件だ」と読み解いていた。
人間が「群れ」をつくると、一つの方向へみんなで動きながら、同調圧力を強める。外部に敵を見つけるとともに、内部で異物を探し攻撃する。その代表が「犯罪者」である。三鷹事件で権力側が共産党に担わせた役割は、それをマスコミが煽る点を含めて、オウム真理教事件以降の今日の流れに共通する、というのだ。再審の動きにとどまらず、さまざまな教訓を学ぶべき事件なのだろう。
下山、三鷹、松川の「三大謀略事件」が相次いで起こった1949年は、
1月の衆院選で共産党が3議席から45議席へと大躍進を遂げた年。
しかし、事件への関与を疑われた共産党のダメージは大きく、
3年後に行われた衆院選挙では、共産党公認候補の全員が落選するという結果に。
三つの事件の真相は今も謎とされたままですが、
「同調圧力の危険性」という森達也さんの指摘、ぜひ頭に留めておきたい。