新聞社の速報サイトの見出しは2つに割れていた。1月16日に最高裁第1小法廷が出した「君が代不起立訴訟」の判決。「戒告は裁量権の範囲内」(朝日)、「処分は裁量権の範囲内」(毎日)に対して、「停職・減給は重すぎ違法」(読売)。この裁判の経緯からすると朝日・毎日の見出しにも理由はあるのだけれど、今回ばかりは読売を支持したい。
イシハラさんやハシモトさんの活躍で「君が代を歌う時に起立しない輩は極悪人。だから、そんな先生はどんな処分を受けたって仕方ない」っていう考え方がおそろしいほど世間に広がってしまった。そんな風潮にもかかわらず、いつもは権力側に甘い最高裁が「不起立による停職や減給は、やりすぎだ」と初めて公式に認めたのだ。「3回の不起立で免職」なんてきまりを作ろうとしている大阪府への影響という面で見ても、そこにこそスポットを当てるべきニュースだと思う。
裁判では、卒業式や入学式で君が代を斉唱する際に起立しなかったことを理由に、2003~06年に懲戒処分を受けた東京の公立学校の先生たちが、東京都教育委員会と都に処分の取り消しを求めていた。今回判決が出た訴訟は、①停職処分を受けた2人、②減給処分を受けた1人と戒告の166人、③戒告の2人、がそれぞれ起こしていた計3件。2審の東京高裁で、①は原告の先生が敗れ、②と③は先生が勝訴と判断が分かれていたため、最高裁が統一見解を示した形である。
判決で最高裁は、停職の1人について2審判決を破棄して処分を取り消すとともに、減給の1人について処分取り消しを命じた2審判決を維持した。つまり、停職1人と減給1人の計2人に対する都教委の処分を取り消したのだ。一方で、168人の戒告については2審判決を破棄し、処分取り消しを認めなかった。停職のもう1人についても、2審判決通り処分を認めた。
ご存じの通り、公務員への懲戒処分は、強い注意と言うべき戒告に始まり、減給、停職、免職と厳しくなる。東京都の場合、不起立を繰り返すと機械的に処分が重くなっていく累積加重システムが採られ、これまでに停職までの処分が発令された。最高裁は戒告処分を認めたものの、「不起立のみによる停職と減給は違法」と明確に示したのである。
最高裁判決の理屈を、ちょっと詳しく紹介する。
――君が代斉唱時に起立するよう求める校長の職務命令は憲法19条に違反せず、教育上の行事にふさわしい秩序の確保や式典の円滑な進行を図るもので、必要性がある。先生が起立しないと、式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうし、参列する生徒への影響を伴うことも否定しがたいから、重すぎない範囲で懲戒処分をすることは、基本的に懲戒権者(都教委)の裁量権の範囲内である。
一方で、不起立は個人の歴史観や世界観に起因し、積極的な妨害ではなく、物理的に式次第の遂行を妨げるものではない。式典の進行に具体的にどの程度の支障や混乱をもたらしたかは、客観的に評価することが困難である。
だから、戒告を超えて減給以上の処分を選択することについては、慎重な考慮が必要となる。戒告ならば職務・給与上での直接の不利益は生じないが、停職ならば一定期間の職務の停止や給与の全額不支給という直接の不利益があり、将来の昇給などにも相応の影響が及ぶ。それに、毎年、卒業式や入学式という2回以上の式典のたびに懲戒処分が累積して加算されると、短期間で不利益が拡大していく。
停職について言えば、それまで1、2年間に数回の不起立による処分歴があるだけでは相当ではない。減給の場合も含めて、過去の処分歴や不起立の前後の態度を勘案したうえで、学校の規律や秩序を保持する必要性と、処分が先生にもたらす不利益の内容とのバランスの観点から、それでも停職や減給を選択することが相当と裏付ける具体的な事情が必要だ。
停職1カ月の処分を受けた先生はそれまで、2年間に3回の不起立による懲戒処分を受けていただけで、積極的に式典の進行を妨害したわけではない。減給の先生も、それまでの処分は1回だけだった。不起立だけを理由に停職や減給を選択した都教委の判断は、処分が重すぎるとして社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるもので違法である――。
要するに、2年間に3回の不起立をしただけなのに4回目で停職まで科すのは重すぎる、とはっきり認定しているのである。2回目の処分で減給というのも同様だ。逆に、停職処分を受けたもう1人の先生には、2回の不起立による懲戒処分のほかに、日の丸掲揚の妨害などを理由にした3回の処分歴があり、その内容や頻度から停職3か月の取り消しが認められなかった。
もちろん、今回の最高裁判決は、もろ手を挙げて賛成できる内容ではない。昨年来の判決の流れを踏まえ(拙稿参照)、そもそも君が代斉唱時の起立を命じることは憲法が定める思想・良心の自由を侵さないという前提に立ってしまっているし、秩序や規律という観点から懲戒処分をすること自体は認めてしまっている。戒告の168人は2審判決をひっくり返されて敗訴したわけだが、戒告を受ければ昇給やボーナス、定年退職後の再雇用などに大きな影響を受けるから、決して軽い処分とは言えない。
それでも、冒頭に書いた通り、いまの世の中で声の大きい方々があれだけ力を入れて唱えてこられた「起立は当然、処分も当然」という論理の行き過ぎに、司法の最高機関がストップをかけた意義は極めて大きいと思うのだ。
しかも、最高裁判決には反対意見と補足意見が付いていた。これにも見るべきところが多い。
宮川光治裁判官の反対意見は、教育の場で「公権力によって特別の意見のみを教授することを強制されることがあってはならない」ことなどを理由に、「教員における精神の自由は、とりわけて尊重されなければならない」との考えを記し、起立を求める職務命令は「憲法19条に違反する可能性がある」と指摘している。そのうえで、他の職務命令違反と比較しても、不起立の「違法性は顕著に希薄」であるから、「戒告処分であっても過剰に過ぎ、口頭や文書による注意や訓告が適切」と主張した。
櫻井龍子裁判官の補足意見は、不起立を続けると処分が重くなっていく仕組みについて、「自らの信条に忠実であればあるほど心理的に追い込まれ、不利益の増大を受忍するか、自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状態に置かれる」と受けとめ、「懲戒権の範囲を逸脱する」と述べている。また、「今後いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態が、教育の現場のあり方として容認されるものではない」と強調して、処分を強める行政にクギを刺している。
実は判決後、最高裁の門前は重苦しい雰囲気に包まれていた。戒告を受けた大勢の先生たちが逆転敗訴したのだから、無理からぬことだろう。しかし、報告集会に移る頃になると、少しずつ元気を取り戻していた。原告の先生や弁護士、学者から「減給や停職は許されないとはっきり言ったのは、非常に大きな成果だ」「最高裁が人権の守り手として見識を示した」「萎縮している現場の先生に勇気を与える」と、不十分ながらも現段階で一定の歯止めがかかったことを評価する声が相次いでいた。
で、今後の影響である。当然、大阪が思い浮かぶ。
大阪府では橋下徹・前知事の主導で、公立学校の先生に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例が昨年6月に成立した。加えて、不起立の先生を念頭に、同じ職務命令への違反が「1回で減給か戒告、2回で停職、3回で分限免職」と明示する条例案が府議会に提出されている。卒業式シーズンを前に府教委は17日、府立学校の全教職員に対して起立斉唱の職務命令を出した。処分を定めた条例案が成立しなくても、地方公務員法に基づいた懲戒処分ができるようになる。橋下氏が市長に就任した大阪市でも、同様の条例制定を目指すらしい。
最高裁が大阪の動向を意識していたのは間違いないだろう。
判決を受けて橋下・大阪市長と松井一郎・大阪府知事は、不起立の都度、指導研修を義務づけるよう条例案を修正する方針を明らかにした。行政として起立させるように努力した形を見せるための小手先の変更と言える。「東京都とはやり方が違う」というアリバイを作るためでもあるのだろう。巧妙である。
橋下氏は「指導研修をしても起立しないなら、やめてもらうのが筋。裁判闘争しかない」と、厳しい処分を強行する可能性も示唆したそうだ。最高裁がここまではっきりと「基準」を示したのに、関係ないというわけか。法律家としての見識が問われている。
もはや「憲法の番人」としての役割には、
ほとんど期待が持てなくなっている、気もする最高裁ですが、
さすがに今の流れには歯止めをかける必要を感じた、ということなのでしょうか。
一方で、著者も指摘しているように、全面的に賛同できる判決とはとても言えません。
自分と違う考えを持つ人を理解し、共存しようとするのでなく、
力で抑えつけて排除しようとする。子どもたちにその姿を見せることが、
「教育」だとはやはりどうしても、思えないのです。