事件発生から45年も経っているのに、と言うべきか、45年経ったからこそ、と言うべきか。いずれにしても、こんなにもいろいろと新たな事実が明らかになっているのだから、検察も意固地になるのをやめてはどうか。何が真の社会正義に資するのか、いま一度、基本に戻って対応を考え直してほしいと切に願う。
1966年に静岡県で味噌会社の専務一家4人が殺害された「袴田事件」。冤罪を訴え再審を求めている元プロボクサー・袴田巌死刑囚(75)が犯行時に着ていたとされる「5点の衣類」について、付着した血液のDNA鑑定の結果が12月22日、公表された。その中で、弁護団推薦の鑑定人が「被害者の血液は確認できなかった」とする結果を出したのである。
当たり前だが、5点の衣類の血液が被害者のものと異なれば、事件の時に着用されていたとは断定できなくなる。それは、別人の血液が何らかの形で、事件の前か後かに付いたことを意味する。弁護団が主張するように、捜査機関による「捏造」なのかどうかは措くとしても、袴田死刑囚を犯人と認定した元の判決の構造自体が大きく揺らぐことになるのは確かだ。
「5点の衣類」を少し説明しておこう。
この事件で起訴された時、味噌会社に住み込みで働いていた袴田死刑囚は、犯行時に「パジャマ」を着ていたことになっていた。ところが、事件発生から1年2カ月後、犯行現場そばの味噌工場の醸造用タンクから、麻袋に入った5点の衣類が味噌に浸かって発見される。そのうちの一つのズボンと同じ布の端切れが袴田死刑囚の実家のタンスから見つかったとして、検察は公判途中で犯行時の着衣を変更。裁判所もこれを認め、死刑判決の大きな拠り所になった。
素人が見たって、この経緯はかなり異常である。このため弁護団は、静岡地裁に起こしている第2次再審請求で「5点の衣類は捏造された」と主張している。実際、支援者らが同様の条件で衣類を味噌に浸けこむ実験をしたところ、ごく短時間で似た状態を再現できたという。5点の衣類は直前に味噌タンクに入れられ、ズボンの端切れも発見の直前に捜査機関がタンスに仕込んだ、との見立てだ。
ちなみに、このズボンを公判廷で袴田死刑囚がはこうとしたところ、小さくて入らなかったことは広く知られている。検察は味噌に浸かっているうちに縮んだと立論し、根拠の一つとしてズボンのタグの「B」がサイズを示すことを挙げていた。ところが、当時すでに「B」は色を示すとズボンメーカーが証言していたことが、最近開示された捜査側の調書で明らかになっている(このあたりの経緯は拙稿参照http://www.magazine9.jp/don/110126/)。
で、実現したのが今回のDNA鑑定だった。実は、第1次再審請求審でも実施されたのだが、2000年に出た結果は「鑑定不能」だった。しかし、技術の進歩で鑑定できるようになった可能性のあることがわかり、弁護団と検察がそれぞれ推薦した2人の学者に静岡地裁が鑑定を委託した。
DNA鑑定の対象になったのは、5点の衣類(ステテコ、半袖シャツ、スポーツシャツ、ズボン、ブリーフ)の、血液が付いているとされる計9カ所。同時に、被害者4人のシャツや下着計6点のDNA型も調べた。鑑定事項は、1)これらに人の血が付いているか、付いているとすれば血液型、2)付いているDNA型、3)それが血液に由来する可能性、4)同一人のDNA型があるか、5)DNAの性別、など7項目である。
その結果――。弁護団が推薦した鑑定人は「各試料には血液が付着しているものと考えられる」としたうえで、「血液型は、これまでの検査(元の判決での認定)とほぼ一致する」と述べた。血液から導いたDNA型から、5点の衣類と被害者の衣類の「双方にわたって付着している、同一人の血液は確認できなかった」と分析。さらに、5点の衣類からは、被害者の衣類から検出されていないDNA型が複数認められており、「血縁関係のない、少なくとも4人以上の血液が分布している可能性が高い」と結論づけた。
検察推薦の鑑定人は、ブリーフの血液が「(被害者と)同一の可能性を排除できない」と記した。半面、袴田死刑囚と被害者4人の中でA型は専務(男性)だけなのに、5点の衣類の半袖シャツに付いたA型とされる血液を「女性の可能性がある」とも示している。また、人の血なのかどうかや血液型については「検討しなかった」、検出したDNAが血液のものかは「不明」としたうえで、「長年常温で保管されていたとすれば、DNAの分解が進んでいたことを否定できない」「第三者のDNAが付着していることは否定できない」と、そもそも鑑定の精度自体が高くないことを釈明するかのような記述もある。
弁護団の西嶋勝彦団長は22日の記者会見で、弁護団が推薦した鑑定人の結果について、「袴田さん以外の何者かが工作した可能性を強くうかがわせる。無実が99%明らかになっている」と強調した。検察推薦の鑑定人の結果には、「DNAが血液のものかどうか不明というのでは、鑑定の体をなしていない。(血液が被害者と同一の可能性という)根拠が全く示されておらず、鑑定として問題のある中身だ」と強く批判した。
この結果を受けて弁護団は12月26日、静岡地裁に早期の再審開始を要望した。検察に対しては、袴田死刑囚の刑の執行停止と身柄の釈放を求めた。逮捕されてから45年以上になる袴田死刑囚は、長期の拘禁による精神障害に加え、最近では認知症や糖尿病が疑われている。面会にも昨年8月から1年以上応じておらず、とにかく「適切な医療機関での治療が必要」と訴えている。
一方の検察。静岡地検は「二つの鑑定結果には相当の食い違いがあり、同一試料を使ってなぜこのような食い違いが出たのかも含め、その信用性について検討していく必要がある」とのコメントを発表した。検察幹部は「試料が古すぎて、そもそも鑑定に適していなかったのではないか。現時点では再審開始を判断する決定的材料にはならない」「ここまで食い違うのは疑問。どちらかの鑑定か、いずれの鑑定も間違っている可能性がある」と鑑定の精度を疑問視しているそうだ(毎日新聞・12月23日付朝刊)。
袴田死刑囚の再審は実現するのだろうか。
2人のDNA鑑定の方法が違っており、今後、精度などについて裁判所で鑑定人尋問が行われる見通しだ。場合によっては、裁判所が改めて別の学者に鑑定を依頼することもあり得るらしい。 弁護団は、5点の衣類の半袖シャツの内側に付着した血痕が袴田死刑囚のものかどうか、さらなる鑑定を実施するよう地裁に申し入れた。被害者ともみ合った際に付いたとされており、今回の鑑定でも袴田死刑囚と同じ「B型」だった。この血痕からはDNA型が検出されており、袴田死刑囚のDNAと一致するかどうかを調べて、捏造かどうかはっきりさせようという狙いである。弁護団にとってはリスクも大きいが、ここで出来る限りの手を尽くす決意のようだ。
再審開始のゆくえを考えるうえで大事な視点は、たとえ片方の鑑定であったとしても、「被害者とは別人の血液」とする結果が出たという事実の重みだろう。捜査機関が捏造したのかどうかは、あえて問わない。しかし、死刑判決の土台が大きく揺らいでいるのだ。元の判決の根幹に少しでも疑わしい要素があるのだから、再審を開始して審理をやり直すべきなのは火を見るより明らかである。
それから、ここで死刑制度の是非を論じるつもりはない。死刑制度があろうがなかろうが、とにかく袴田事件において、刑を執行することはもちろん、死刑判決を見直さないのはおかしい、というスタンスに立つ。刑を執行してしまってからでは、やり直しがきかないのだ。
裁判所と検察には、ぜひとも「疑わしきは罰せず」という刑事司法の大原則に立ち戻って、迅速に対応してほしい。確固たる証拠に基づかないまま刑を執行することが、社会正義にかなうわけがない。これは私たち自身がいつ直面するかもしれない問題でもあり、市民の側からもきちんと声にして伝えていきたい。
判決確定からでも31年間、死刑の恐怖と向き合いながら幽閉され続けてきた袴田死刑囚の時間は戻るべくもないが、今からでも誤りを認めることを躊躇してはなるまい。
「疑わしきは罰せず」の大原則に立てば、
死刑の前提となった「証拠」の信頼性が揺らいでいる以上、
そのまま刑が執行されることがあってはならないのは自明のこと。
そしてそれこそが、私たち一人ひとりの人権を守ることにもつながるはずです。
重ねて、検察の迅速かつ勇気ある対応を望みます。