3・11後の原子力発電所をめぐる議論の中で、最も隔靴掻痒感が強い部類に入るテーマが「原発交付金」ではないだろうか。
少なからず原発の恩恵を受けてきた都会には、交付金の見直しをはっきり言い出すことに、どこか後ろめたい気持ちがある。逆に、原発が立地する地元からすると、事故を理由にこれまでの取り決めを変えられては困るっていう、言葉にしにくい本音がある。その結果として、お互いにあえて何も語らないことが「暗黙のルール」になって、曖昧なままにされている気がする。
そんな原発交付金が「提言型政策仕分け」で取り上げられると聞いて、今月20日の初日に東京・池袋へ傍聴に行って来た。「二番煎じだ」「拘束力がない」なんて批判される今回の仕分けではあるが、公開の場でどんな意見が出され、どんな結論になるのか、興味があったからだ。
正式名称を「電源立地地域対策交付金」という。原発が立地したり10キロ圏内に位置したりする市町村や道県に交付されていて、道路、漁港、病院、学校といった公共施設、地域・商業活性化などのハード・ソフト両面に、人件費を含めて幅広く使える。今年度の予算は1188億円。水力や地熱も対象とはいえ、うち8割が原発である。経済産業省は「立地のメリットを目に見える形で」と狙いを率直に語っていた。
支給は、着工前の立地可能性調査の段階から始まり、廃炉まで続く。出力135万キロワットの原発1基が、計画から運転開始まで10年(うち建設期間7年)、それから廃炉まで36年として、交付金の総額は1240億円にのぼる。原資は電気料金に含まれる電源開発促進税。受益者負担の名のもとに、標準世帯で1カ月6776円のうちの108円にあたる計算だそうだ。
さて、仕分けの場で経産省は「立地自治体は、交付金という『約束』をもとに原発を受け入れており、その経緯を十分に踏まえることが必要だ」と強調した。交付金の今後については「現在行われているエネルギー基本計画の見直しの中で、併せて検討していく」と主張した。そこだけ聞けば、異論を唱えにくい。
複数の仕分け人から「原発の事故が起きない前提の制度だった。事故が起きて条件が変わったのだから、あり方や質・量を見直すべきだ」との意見が相次いだ。しかし論点は、交付金の使途を地元の安全対策にシフトするかどうか、に集中していく。原発事故後の地元の不安を思えば、それはそれで大事な方向なのだが、交付金そのものをどうするかという根本には至らない。
で、原発の安全対策について経産省は、放射線測定器の購入や防災訓練、医療施設の整備などに充てる「緊急時安全対策交付金」があり、来年度予算では今年度の3.7倍の95億円を概算要求していることを紹介。原発交付金についても、「今の仕組みでも安全対策に使える。安全対策に活用するかどうかは、まさに立地自治体の判断に委ねるべきだ」として、見直しには否定的だった。
仕分け人の再三の要求にも「安全対策に振り向けるように、(使途を定めた)要綱を変えることはあり得る。地元の意見を聞いて判断したい」と答えるにとどまった。ちなみに、仕分け人からも「悶絶して原発を受け入れている方々を縛るのは傲慢。安全対策は国がきちんとするべきで、独立して予算化を」との指摘が出ていた。
仕分けの結果、原発交付金に対する提言は「原発の事故対策や防災、安全対策を拡充する仕組みを検討」となった。ただし、「自治体の使い勝手の良さに配慮を」との条件が付いた。これじゃあ玉虫色に解釈でき、具体的にどう変わるのかイメージしにくい。せっかくの機会だったのに、結局は冒頭に書いた「暗黙のルール」が適用されていたようで、隔靴掻痒感は増すばかりだった。
いま一度、原発交付金をみてみる。
当初は公共施設の建設というハード面に使途が限定されていたが、施設の維持・運営に広げられ、現在では、ごみ収集、保育士や医師の人件費、観光PR、各種研修会にも利用できるそうだ。財務省は仕分けの資料に、遊戯施設のジェットコースター修繕、遠距離通学の中学生への交通費助成、どろんこバレーボール大会への補助、野球場の観客席新設といった使用の実例を挙げて、問題提起していた。
確かに、これほどの見返りがないと原発を受け入れる自治体がなかった、とは言えるだろう。そして、そこまでして原発を受け入れさせてきたのは他ならぬ都会に住む私たちだったと、まずは反省しなければなるまい。
でも、今さらながらではあるけれど、そういう仕組みが地域の自立を妨げてきたという指摘にも、真摯に耳を傾ける必要がある。大きな事故が起き、既存の原発が今後、長期にわたって稼働し続けるとは考えにくい状況になっているからだ。原発の早期運転停止も見据えて、地元の振興策をどうすべきか、そのために交付金制度をどうしていくべきか、知恵を出し合い始める時期ではないだろうか。
仕分けを傍聴しながらそんなことを考えていたら、違和感が募ってきた。原発の地元という肝心の「当事者」がいない場でいくら話し合っても、何も進まないのではないか、と。
これまでにも何度か書いたが、原発の今後を考えるうえでまずなすべきことは、結果として原発を押し付けてきた都会が、地元の声をよく聞くことだ。原発の地元が何を考え、何に悩み、何をしたいと考えているのか、原発に対してどんな気持ちを持ち、どんな不安を抱いているのか、いろんな意見を幅広く吸い上げたい。そのうえで、交付金を負担してきた側として、今後どうしたいか、どうすべきかを提案し、地元が原発なしでも生活していける代案を一緒に考えていきたい。
今回の仕分けに見られるように、政府や行政が「対話」の場を設けられないのなら、市民レベルで多様なチャンネルを模索していくしかない。原発に依存している地元には、さまざまなしがらみで声を上げにくい事情があるから、都会の側からきっかけを作って働きかけたい。原発容認の空気が広がりつつある昨今だけに、原発の地元が変わることこそが、遠回りに見えても原発に頼らない社会を実現するための早道である気がする。
3・11後に改めて気付いたことの一つが、
「原発立地」の状況に関する自分のあまりの無知さ、でした。
どんな仕組みや雰囲気のもとで「原発のある町」が生み出され、
その地で人々はどのように暮らしてきたのか。
そこに目をやり、ともに今までとは違う未来像を思い描く。
それなしに本当の「脱原発」はあり得ないのでは? と思います。