荘厳だけれど、何をやっているところなのか庶民にはよくわからない。公共の庁舎のはずなのに滅多に中に入れないし、執務しているお偉いさんの姿が見えてこない。というか、そこにいる人たちは「自分たちが繰り出す理屈を下々の者は理解できなくていい」っていう傲慢さが権威だと思っているフシがある。
最高裁判所のイメージを意地悪く書くと、こういう感じだろうか。
そんな最高裁だが、どんな判断をするつもりなのか、その方向をほのめかすことがある。訴訟の当事者双方の主張を聞く「口頭弁論」である。最高裁は書面審理が原則だから、上告を退けるのならば口頭弁論を開く必要がなく「切り捨てご免」でいいのだが、2審判決を破棄する場合には開かなければならない。口頭弁論が開かれれば2審判決が変更される可能性が高く、開かれずに判決日が指定されれば上告棄却ということになる。
卒業式や入学式で「君が代」を斉唱する際に起立しなかったことを理由に懲戒処分を受けた東京の公立学校の先生たちが起こした3件の訴訟について、最高裁は11月から12月にかけて口頭弁論を開くことを決めた。背景や見通しを知りたくて、最近開かれた3つの集会や学習会に参加してきた。
最高裁がこれまで「君が代不起立訴訟」でどういう判断をしているか、斎藤一久・東京学芸大准教授(憲法)の話を糸口に振り返っておこう。
基になっているのは、今年5月30日に第2小法廷が出した判決だ。
判決はまず、「起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗・国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる」と捉え、先生たちに起立斉唱を求める職務命令が「思想・良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定しがたい」と認めた。
ただし、間接的な制約が許されるかどうかは「職務命令の目的や内容、制約の態様などを総合的に較量して、職務命令に制約を許容し得る程度の必要性や合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である」と指摘。そのうえで、卒業式や入学式では「教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要」と述べ、「職務命令は、式典における慣例上の儀礼的な所作としての国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするもの」であり、「間接的な制約を許容し得る程度の必要性や合理性が認められる」から、「思想・良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえない」と結論づけた。
この判決の後、最高裁では君が代不起立に関連する訴訟について「起立斉唱の職務命令は合憲」とする方向での判断が相次ぎ、東京だけでなく神奈川、広島、北九州を含めて不起立の先生たちは10連敗中である。
もっとも、5月30日以降のこれらの判決には、さまざまな反対意見・補足意見が付いている。斎藤さんは、そこに着目した解説もしてくれた。
6月6日の第1小法廷判決で、宮川光治裁判官は反対意見として「式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が我が国には相当数存在している」と前置きし、「日の丸や君が代を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権とは相容れないと考えている」人たちの存在を念頭に、「少数ではあっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる」と述べた。
「そもそも憲法は、多数派が少数派を排除しないために定められている」と斎藤さん。確かに、5月の最高裁判決が拠り所にしている「常識=多数派的な論理」だけで憲法を解釈してしまえば、世界でも珍しいという19条を置いた意味がなくなってしまう。もちろん、思想・良心の自由を理由に何でもかんでもが認められるわけでないことは十分承知のうえで、宮川裁判官の問題提起には改めて真摯に耳を傾ける価値があると思う。
また、「起立斉唱の職務命令は合憲」とする立場に立っていたとしても、厳しい懲戒処分に対しては否定的な見解を垣間見せる裁判官もいる。
田原睦夫裁判官は6月14日の第3小法廷判決で反対意見として「職務命令違反によって校務運営にいかなる支障を来したかという結果の重大性の有無が問われるべき」と、高裁に差し戻すよう主張した。岡部喜代子裁判官も同日の判決で補足意見を述べ、「(不起立の先生に)不利益処分を課すことが裁量権の逸脱や濫用に該当する場合があり得る」として「慎重な衡量」を求めた。須藤正彦裁判官は5月30日の判決で「強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべき」と補足意見に記している。
他の裁判官の補足意見にも「国旗・国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要」「教育関係者の相互の理解と慎重な対応が期待される」といった文言が見られる。東京都教育委員会の強権的な手法や処分の重さを暗に批判している、と読むことができそうである。
そんな流れの中で、最高裁が口頭弁論を開くことは何を意味するのだろうか。
口頭弁論の対象になる3件の訴訟のうち、2件は2審で原告の先生たちが勝訴、1件は敗訴している。勝訴した訴訟は、(1)都立学校の先生たち167人が減給・戒告の取り消しを求め、「処分は重すぎる」として東京高裁で認められた、(2)同様に、2人の処分の取り消しが同高裁で認められた、の2件。敗訴した訴訟は、2人の停職処分の取り消し請求が東京高裁で退けられたものだ。
斎藤さんは、反対意見や補足意見も併せた最高裁の判決内容を踏まえて、「憲法判断は変えずに、処分が都教委の裁量権濫用に当たらないかどうかを判断するのではないか」と予想していた。職務命令に違反したことと懲戒処分の「比例性」を審査するため、「高裁に差し戻すのかもしれない」とも見立てていた。たとえば不祥事や体罰による処分と比較して、君が代斉唱の間、わずか40秒の不起立で停職処分まですることが妥当かどうか、というアプローチである。3つの2審判決の整合性を保つ狙いもあるのだろう。
この問題をめぐる最高裁の憲法判断には大きな疑問を抱くし、それを改めない形での判決だとすれば決して納得はできない。だが、憲法判断を変えないという前提が動かせないのであれば、次善の策として「処分の重さ」の観点から、実質的に先生たちの思想・良心の自由に寄り添う判決を出すことに期待したい。戒告処分まで取り消した2審の判断を尊重するように、強く望む。
もう一つ、最高裁が今回、処分の重さについて判断しようとしている背景として、斎藤さんは「最高裁は、大阪府の行き過ぎに気づいている。どこかで歯止めが必要と考えているのだろう」と話していた。ご存じの通り、大阪府では橋下徹知事が主導して、公立学校の先生に君が代の起立斉唱を義務づける条例が6月に成立。さらに、不起立の先生を念頭に、同じ職務命令に3回違反をすれば原則は分限免職、と明示する条例案が府議会に提出されている。ぜひとも、この動きにクギを刺す内容の判決にもなってほしいものである。
11月には大阪で、知事選・市長選の「ダブル選挙」が予定されており、
維新の会が提出している「教育基本条例」が争点の一つともなりそうです。
日の丸や君が代をどう思うかという問題ではなく、
思想や良心の自由を無視した「強制」が、
教育の場で堂々と「当たり前のこと」として行われてしまうということ。
そここそに、問題の本質があるのだと思います。
本コラムの49回や、
伊藤塾・明日の法律家講座レポートもあわせてお読みください。