高度成長期を経て、バブルがはじけ、私たちが目指すものは、「右肩あがりの成長」でも、「バブルの夢よ再び」でもないはずです。きたるべき成熟して落ち着いた社会を迎えるために、私たちがやるべきことは何なのか? どのような経済活動がこれから有益なのか? このコーナーでは、独自の理想を掲げ実践を続けてきた「ニッポンの社長」の声を紹介。「たそがれゆく日本」で、私たちが生きていくためのヒントをもらいます。
高橋英與さん
(株)コミュニティネット代表取締役社長
コミュニティネット株式会社の代表取締役社長、高橋英與さんは、高齢者、障がい者、子供たちといった社会的弱者が住みやすい町づくり、多世代が生き生きと暮らせる地域づくりの事業を展開しています。超高齢化の進む社会を放置しておけば日本が壊れてしまうという認識の下、袋小路に入り込んだ日本で私たちはどう生きていくのか。企業経営者として「理想」を語り続けながら、同時に「そろばん」をはじいてきた高橋さんに話を伺いました。
高橋英與(たかはし・ひでよ) 1948年岩手県花巻市生まれ。設計事務所勤務を経て、(株)連空間設計を設立し、代表取締役就任。コーポラティブハウスづくりを手がける。1987年、株式会社生活科学研究所(現在の社名:株式会社生活科学運営)を設立し、高齢者住宅や有料老人ホームづくりに携わる。2005年、生活科学運営の経営を若手に移行。2003年株式会社コミュニティネット代表取締役就任。現在に至る。著書に「街の中の小さな共同体」(中央法規)他。
●全国に1000拠点のコミュニティを計画中
───(株)コミュニティネットの主な事業を教えてください。
まずは高齢者住宅市場の現状を説明しましょう。それは次の4点に大きく分けられます。①高齢者人口の絶対的な増大で高齢者住宅が不足し、急速な供給が求められている、②介護保険は利用者が急増するため、今後は制度そのものの維持が厳しくなっていく、③バブル以降続いている低成長期のなかで資産は減り、年金も下がり続けている、④事業者は要介護者向けの介護型高齢者住宅に集中しており、自立型高齢者住宅の割合が非常に低くなっている。そうした状況のなかで、当社は高齢者向け住宅の設計から実際の運営までを担い、また生活産業全般に関わるマーケティング調査、それを基にした商品開発というコンサルティングなどを行っています。
ぼくたちのビジネスモデルは大きく3つに分けられます。空き家が目立つようになった郊外の団地を新しいコミュニティとして再生する「団地再生型」、シャッター通りとなりつつある駅前商店街を再び人が集まる場に変える「駅前再開発型」、そして過疎地を自然豊かで高齢者、障がい者、子供たちには優しい土地として見直す「過疎地再生型」です。これらを基にしたコミュニティを全国で1,000カ所つくりたいと考えています。
───自社で1,000カ所につくるということですか?
いえ、当社の高齢者向け住宅運営のビジネスモデルに賛同してくれる企業や個人がそれぞれ地域で事業を展開し、それに対して人材、資金、あるいはノウハウなどを提供していくというかたちです。そうしたコミュニティが全国各地に1,000カ所できれば、日本が抱える少子高齢化、介護保険や年金の逼迫、そして原発の問題などを解決していくパワーになると思うのです。
高齢者向け住宅に住む入居者は50名くらいでも、そのハウスの食堂や設備を地域の人々に開放し、活動の拠点にすれば、周辺住民を含めて3,000人くらいのコミュニティが生まれます。それが1,000カ所できると、人々の数は300万人に上り、何らかの発信元になる。
そうしたコミュニティを通して日本を人に優しい社会に変えていきたい。高齢者にとって優しい社会は、子供にも、子育て中の親にも、障がい者にも、若者にも、あらゆる人たちにとって優しい社会になるはずですから。
●ビジネスの原点
───そのような思いに至ったきっかけは何だったのですか。
生い立ちです。ぼくは岩手県花巻で生まれました。父は戦争中、中国に渡っていて、戦後はダム建設など土木工事の労働者として飯場生活をしており、大きな工事ごとに東北や北海道を転々としていました。父は仕事が終われば、お酒を飲んで母に暴力を振るったり、博奕を打って踏み込まれたり、というような毎日で、それに耐えられなくなった母が姉を連れて、飯場の父の同僚と駆け落ちしてしまったんです。
───それからはお父さんと2人暮らしで?
2人と言っても父をはじめ飯場の男たちは昼間、出かけてしまうので、ぼくは1人で山のなかに残されました。夜だってお酒を飲みにいってしまうので、テントのような小屋でぼくは1人で寝る。夜は真っ暗だし、動物の鳴き声は聞こえるし、怖くて、怖くて。結局、父はぼくをいろいろなところに預けたあげく、最後には旅館に捨てていったんです。
ぼくは預けられた先で、そこの家族の気持ちを必死になって読み取ろうとしました。相手に気に入られなければ追い出されるから。やがて父が迎えに来て、大船渡に移り、そこでいまの母と再婚しました。ぼくは小学校の途中から中学校を卒業するまでを大船渡で過ごしました。
───そこではどんな日常を送られたのですか。
いわば農村の長屋暮らしです。風邪をひいたら、近所の人がみかんをもってきてくれたり、悪さをすると隣のおばあちゃんに叱られたりという生活。また、ガキ大将で近所の子供たちを引き連れて川や山で遊んでいましたから、大人になって都会に出てきたときは面食らいました。たとえばエレベーターで人に「こんにちは」と声をかけたら怪訝な顔をされて、こうしたなかで暮らすのは大変だなあと思ったものです。
かといって、むかしの農村生活に戻れと言っているわけではないんです。ぼくはむかしの農村のいいところも悪いところも知っています。飯場生活で女性たちが虐げられていたことを見てきました。新しい母も一度、離婚させられているんですよ。子供ができなかったから。でも父と再婚して妹を生んだ。つまり原因は前夫にあったのに、すべて女性のせいにされる。そういう理不尽さを見せつけられました。
ただ、同時に、農村という共同体には暖かさもある。ぼくは都市の生活の便利さに囲まれた暮らしのなかで、本当にこんな生活でいいのだろうか? と考えました。個人のプライバシーを大切にするといったことは戦後、ぼくたちが獲得してきたものですが、他方で失ってきたもの、心の置き方といったことを見直してみたいと思ったんです。
───それはどういう形での活動になったのですか。
大学で建築を専攻したぼくの恩師は「建築とは人間学だ」と言いました。普通、建築といえば図面を引いて建物を造るという空間づくりを指すわけですが、もうちょっと広く考えなさいと。子供たちがどう毎日を過ごしているのか、高齢者がどう暮らしているのか。建物というハードだけではなく、家族やコミュニティというものまで考えるためには、歴史や社会学、哲学などトータルな勉強をしなさいというのです。
大学卒業後は名古屋の設計事務所に入りました。ぼくの役割は建築物の構造計算。面白くないんですよ(笑)、モノだけだから。それで昼の生活と夜のそれに分けました。昼は生活するための仕事と割り切り、夜と休日は自分の好きなことをやる時間にして、古い街並みの保存をする活動などに携わりました。ところがオイルショックで設計事務所の経営が苦しくなって、10名以上いた一級建築士がみんな辞めてしまいました。残ったのは社長とぼくと事務の女性の3人だけ。借金取りがくるような日々です。会社を立て直すためには仕事をとってこなくてはなりませんが、名古屋ではなかなかとれないので岐阜の方へ行きました。
───どんな仕事を受注したのですか。
旅館とか街道沿いのレストランなどの設計です。それだけではなく、建物をどこに建てるかを地元の商工会の人と話し合ってまとめたり、どこかの店舗で人が足りなくなったので人材を探したり、あげくはレストランのメニューまで考えてたり(笑)。他の建築事務所と同じことをしていたのでは、仕事がとれません。他の建築事務所がやらないことをやり、人間関係をつくっていって、知らない間に設計の仕事がとれたという感じです。
そうこうしているうちに社長から専務をやれといわれたのですが、その後、社長が重い病気になって設計事務所を締めざるをえなくなりました。当時、28才だったぼくは独立してコーポラティブハウスの設計事務所を始めました。1980年代前半の頃です。
●建物に人を合わせるのではなく、人に建物を合わせる
───コーポラティブハウスについてご説明ください。
建売住宅や分譲マンションは先に入れものを造る、つまりその空間に人を合わせるのに対して、自分たちの生活を合わせていく。服に身体を合わせられませんよね。ところが家には合わせられる。生活をぎゅっと圧縮させることで。建売住宅や分譲マンションは同じものをたくさんつくって、消費者に選択してもらいますが、そうした生活上の歪みは長い時間をかけて出てくるんです。
一方、コーポラティブハウスはいわば「注文式マンション」。僕たちが入居希望者を集め、その方々のニーズを聞き、共同で土地を買って、住宅を建てていく。大変なんですよ、これは。入居者の生活歴、家族構成、そこでどういう風に生活したいかを聞いて、それに空間を合わせるから、入居者の方々との話し合いから建設開始まで1年~1年半はかかります
ただ、手間暇をかけることで、結果としてコミュニケーションが生まれ、建物ができたころには人間関係ができあがっているんです。ぼくも自社で設計したコーポラティブハウスの第1号の入居者ですが、そこで生まれたぼくの子供は、入居者の間を分け隔てなく、行き来をしていました。
───コーポラティブハウスがいまの仕事の下地になっているわけですね。
コーポラティブハウスを通して学んだのは、効率性とコミュニティはときに相反するということです。コミュニティづくりには手間暇がかかる。人間関係をつくるというのは難しいし、煩わしい。でも、そういうことを通してコミュニティはできていくのです。
日本の戦後は便利さや効率性を追求してきた時代でした。個人や社会、経済が元気なときにはそれでもいいのですが、高度経済成長が終わり、高齢者が増えていく時代になると、高齢者や障がい者、子供といった社会的弱者に歪みがでてきます。その歪みをどうしたら解決できるのか? 原因を見つけ、生活を見直し、解決していく方法を生み出したい。その思いが強くなったので、設計事務所は他のメンバーに引き継いでもらい、1983年に任意団体の生活科学研究所を設立しました。
───そこではどんな活動をされたのですか。
最初に始めたのが子供の遊びです。都会では道路がクルマに占領されて、路地で缶けりや縄跳びもできず、子供たちは外で遊べなくなった。そこで夏休みに自分が学生時代を過ごした群馬に都会の子供たちを呼んで芋ほりをやったのです。また、名古屋近郊の廃校に泊り込み、近所の農家の方々の田植え稲刈りを手伝わせてもらったり、むかしの遊びを教えてもらったりする「3世代キャンプ」を実施しました。
そこには子供と一緒に母親もきます。彼女たちと話し合ううちに女性の抱える問題に取り組むようになりました。たとえば子育てが終わった後の彼女たちの仕事。単純労働ではなく、やりがいのある仕事をしたいという母親のために「もういちど社会に出るためにみんなで勉強しましょう」と再就職セミナーを開催しました。セミナーを卒業した人たちの中から、就職するのではなく自分たちで仕事をつくろうという人が集まって、スウェーデンから人形劇を招聘したこともありました。そうした経験を重ねるうち、主婦の方々の仕事だけではなく、親の面倒をどうみるかとか、自分の老後をどうするかという問題に関心が広がっていったのです。
そこで介護だったらこうした方がいいですよとか、子育てならばこういう風にした方がいいんじゃないですかといった相談業務をやっていたのですが、あるとき相談者から「ここに来なければよかった」と言われました。なぜかと聞くと、「知らなければ(現状に)我慢できたけれども、(問題を)知ったために苦しくなった」と。相談といいながら、ぼくは理想論を語っていたんです。でも現実は違う。当時は介護保険もなければ、隣近所で支え合う慣習もない。しかも家族は核家族、何もできません。
生活科学研究所はこれまでのぼくたちの生活を見直し、それを提案することが役割だったのですが、ぼくは、相談業務ではなく提案したことを実現しなければならない、そのためには任意団体ではできないと考え、1987年に事業推進のために任意団体を㈱生活科学研究所とし、その後の事業発展に伴い㈱生活科学運営としました。
「金儲け優先」と揶揄されることの多い「カイシャ」だけれど、もちろんそんな企業ばかりではない。
社会を少しでもいい方向に向けたい、暮らしやすい社会をつくりたいと、豊かなアイデアを持って奮闘中の経営者もたくさんいます。
ニッポンのこれからをつくるそんな「社長」たちに話を聞く新コーナー。
次回もお楽しみに。