冷たい雨の降る12月18日、東京・下北沢の「気流舎」で、トーク&座談会「沖縄と表現をどう捉えるか?」が開かれた。若い現代芸術家、社会学者、基地問題に直面する沖縄在住の音楽家らが熱い意見を戦わせた。
気流舎の中は2階まで超満員。司会の居原田遥さん(東京芸術大学修士)の挨拶の後、まず美術家の川田淳さんが口火を切った。広島の原爆被害を誰が語るのか、という主題で作られたビデオ作品《語り継ぐ「私」》を例に「当事者性」の問題を提起した。この問題は、最後までこのイベントのテーマとなる。
次いで美術家・映像作家の柳井信乃さん。能面をつけた少女が米軍基地や原発を回るスライドのインスタレーション《Screen Memories》で表現された、それらの施設が観光地化=無害化され、暴力と平和が並立する奇妙な関係。その能面は討たれた少年である「敦盛」であることも、その意味付けを深めている。
柳井さんは続けて、アートとネーションの関係を語り、「沖縄にも日本にも肩入れできない」と述べた。ここで音楽家の石原岳さんから、「アート」「ネーション」「中立」などの概念に対しての疑問が投げかけられ、その場は少し緊張した。なるほど、アートとはそもそも何なのか、と。
その場を東京芸術大学准教授で社会学者の毛利嘉孝さんが収める。アートと権力との関係は緊張することもある。昭和天皇をモチーフにした大浦信行さんの版画シリーズ《遠近を抱えて》14点が焼却処分になった事件を挙げた。権力との距離のとり方は、確かに難問だ。
そして石原さんの話。米軍ヘリパッド建設問題に揺れる沖縄やんばる・東村高江に住む彼は、先ほどの「当事者性」について語り始めた。内地生まれの石原さんは、こうした問題は沖縄の人が先頭に立ってほしいと思っていた。しかし、自分が住んでいる高江のことに直面して「自分がこの世界の当事者なのだ」と分かったという。
その場にいたか否か、そのカテゴリであるか否かといった「当事者性」で、社会運動でもアートでもあらゆることに「排除の論理」が働く。これを超える「世界の当事者」論は興味深い。また、情報による経験の獲得が当事者性を補強するのではないかという毛利さんの話も頷ける。
たとえそれが「考えのある沈黙」だとしても「無関心」に回収されてしまい、結局「行動を起こさない理由」でしかない。アートの言葉も内面化されすぎ、これが分断化されているのであればアーティスト同士の横のつながりが必要なのではないかとも、毛利さんは述べた。
この後も、アーティストとアクティビストの「言葉の力の強さ」の違いや、都市に住んでいると嫌なものを見ずに済み個人の主体性を忘却していくことなど、話は縦横無尽に。いったんお開きとなった後も、残った参加者は夜遅くまで議論を交わしていた。(中津十三)
アートで当事者性を出すのは難しいかもしれないです。
アートで戦争を表現しても戦争は悲惨だという感想はあっても
能動的に動こうというところまではいかないことが多いと思う。
想像の余地を残すことで、主体的に考えさせるという効果は出てくるかもしれないけれど、
受け取る人のアンテナにひっかからなければそれまで。
アーティストの考えが孤高なら、マスコミに感性を傷つけられている大衆のアンテナにかかる確率は低い。
ただし、参加型のアートなら、もう少し可能性が広がってくる。
授業中に質問をたくさんすると生徒が眠くならないのと同じ。
あと、アートが個人的なものであると、可能性に壁ができそう。
アートを大人数でつくることで、参加型にするのが、近道かも。
まだまだ憲法が何かがわかっていない人が多いから、その辺、大人数でアートつくってほしいなぁ。
もちろん、基地問題でも日米安保問題でも原発問題でもTPPでも格差問題でもいい。
本当のアーティストには怒られちゃうかもしれないけど、よくわからなくてもとにかくやってみて
これがアートだって言い切ってほしい。壁画でも絵本でも芝居でも紙芝居でも落語でもコントでも合唱でもミュージカルでもオペラでも映画でもネット動画でもいいから。本当はすべての人がアーティストだと思う。