自公政権は数に物を言わせて、特定秘密保護法を成立させた。しかし、この法案に対する反対意見は各界から澎湃として湧き起こり、過去に例を見ないほどの広がりを見せた。
これに対し菅義偉官房長官は「議論は尽くされた」との認識を示し、丁寧に説明すれば国民の懸念は解消されるとしている。また支持率が5割を切ったことなども予測していたとして強気を崩していない。
ここまで強気でいられるのはなぜだろうと考えると、やはり政権が民衆をどう見ているのかが透けてくる。石破茂自民党幹事長の「デモ=テロリスト」暴言を例に挙げるまでもなく、民主主義のとらえ方が私たちとは違うようだ。
今回の数の暴走を、民主主義は多数決なのだから仕方がない、という人もいる。それはちょっと違う。全員が満足する政治結果はないからこそ多数派は少数意見に対し話し合い、情理を尽くして説明する義務がある。何よりも、選挙の勝利は白紙委任状ではない。
与党の強行採決をマスコミで側面支援した記事「民主主義 誰が『破壊』? 多数決の否定はおかしい」があった。読売新聞6日付で筆者は松永宏朗政治部次長。「多数決で決めるのは民主主義のルールであり、それをだめだというのは少数者の横暴」だという。
なるほど、その側面はあるだろう。ならば、圧倒的多数が反対や慎重審議だったパブリックコメントや公聴会での意見について、彼はどう見ているのか。まさか、議員と一般国民とでは、民主主義の拠って立つところが違うとでも思っているのだろうか。
「民主主義」という言葉を自分の都合のいいように解釈する政治家とマスコミ人。「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」と喝破したルソーを連想するまでもない。
歴史家の渡辺京二さんは『近代の呪い』(平凡社新書)の中で次のように書いている。
「民主主義とは、国民主権の制度的保証としての普通選挙にもとづく議会制度、さらに政治をつねに監視し批評する世論、このふたつの存在を前提とする政治制度のことでありましょうが、これは近代の生んだもう一つの政治制度、全体主義的独裁というまぎれもない悪を抑止するための最低の保証として意味があるのだと思います」
安倍内閣は、来年の通常国会に「共謀罪」創設を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案を提出する意向だという。民主主義国家を標榜しても、その内実は全体主義的独裁である国もある。日本をそんな国にしたくない。今や日本の民主主義が生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。(中津十三)