第2次世界大戦の敗戦後、日本ではありとあらゆる公文書が焼却された。これはポツダム宣言受諾決定後の鈴木貫太郎内閣の閣議決定に基づくものであり、組織的・徹底的なものだったという。結果、日本がなぜあの戦争に突入していったか、そして戦争で何がなされたかという検証は甚だ不十分なものになった。
何より、日本国民の手によって検証は行われなかった。自分たちに都合の悪い情報は官僚によって闇に葬られた。情報を国民の手に委ね、歴史の審判を受けるというような殊勝な考えはそこには全くない。
衆議院の強行採決を経て参議院で審議されている特定秘密保護法案は、再び官僚が情報を統制する危険性を強く帯びている。
現在、不十分ではあるにせよ、公文書管理の基本的ルールを定めた「公文書管理法」があり、行政機関の文書作成とその管理簿への記載が義務付けられている。これによって国民による将来的な検証ができるように、他国からは相当遅れたが、やっと2011年から施行されたのだ。
12月3日に行われた、「特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます―2006名の学者声明―」の記者会見で配られた資料でも、こうした情報公開の動きに逆行するものだとして、強い非難がなされている。
こうした情報を扱う官僚は、といえば、経産省や復興庁のキャリア官僚によるブログやツイッターでの暴言が象徴的なように、その劣化ぶりは目を覆いたくなるほど。これとは別に「誤って」と発表される文書廃棄もある。意識の低さと管理体制の杜撰さ。この法案はそれをさらに助長するだろう。
特定秘密保護法を心の底から望んでいるのは、情報は国民のものだなどと露ほども考えぬ官僚たちなのだろう。安倍晋三首相が独裁するというより、官僚が独裁する国家が出来上がるのだ。その官僚の顔は、見えない。(中津十三)