毎週買っていた週刊誌を買わなくなって、久しい。斜に構えた視点、底意地の悪い文章、売らんかなの記事…たとえそれらがあったとしても、読ませるだけの力がかつての週刊誌にはあったと思う。しかし、最近の売り物は「セックス、ネガキャン(ネガティブキャンペーン)、中韓叩き」。辟易するばかりだが、これで売り上げを伸ばそうというのだから問題だろう。
出版業界はここ十数年、ずっと右肩下がり。出版物の動態調査や統計をまとめている出版科学研究所の発表では、2012年1~10月までの書籍・雑誌の売上高(推定)は前年同期比で書籍が2.3%、雑誌は3.9%とともに減。特に雑誌は2011年に同6.6%減と大幅なマイナスとなり、それまで1兆円規模だった売り上げを割ってしまうほどの深刻さだ。
そんな中、雑誌を読む習慣がまだある中高年男性に向けたセックス特集に力を入れているのはご承知の通り。「秋の夜長、こんなSEXをしてみませんか」(週刊現代)、「死ぬほどセックス『定年延長』宣言」(週刊ポスト)など、電車の中吊り広告を見ても、赤面するようなタイトルの数々が並ぶ。
まあ、セックス特集ならまだいい。問題はネガキャンと中韓叩きだ。少し前だと山本太郎参議院議員、最近では、みのもんた氏への「水に落ちた犬はさらに打て」とばかりの記事が各誌を飾り、また中国・韓国への罵言に等しいような記事も枚挙に暇がない。対象を侮蔑し貶め、嫉妬と憎悪を煽る…すなわち、差別が飯の種になり、これで出版不況を生き残ろうとしているのだ。
「貧すれば鈍す」という言葉がある。出版不況とはいえ、差別記事を載せれば雑誌が売れるからといって、その流れに棹を差してどうするのだろうか。戦前、新聞や雑誌がテロリズムや軍国化を煽り、民衆もこれに呼応して戦争に突入していった歴史を知らないわけではあるまい。当座はともかく、長い目で見れば、いつかは自分たちの首を絞める…おや、この構図は原発に似ているようだ。
日本雑誌協会の定めた「雑誌編集倫理綱領」には、以下のような文言がある。
2.人権と名誉の尊重
個人および団体の名誉は、他の基本的人権とひとしく尊重され擁護されるべきものである。
(1)真実を正確に伝え、記事に採り上げられた人の名誉やプライバシーをみだりに損なうようなないようであってはならない。
(2)社会的弱者については十分な配慮を必要とする。
(3)人種・民族・宗教等に関する偏見や、門地・出自・性・職業・疾患等に関する差別を、温存・助長するような表現はあってはならない。
差別を煽る週刊誌に、自覚はあるのだろうか。言論の自由の危機は、上からの規制だけではない。
差別が厄介なのは、人間の本能からくる欲望に根差しているからかもしれません。
おそらく、アイデンティティが確立していない人が、こういう刹那的な「差別したい」という
欲望にかられるのではないでしょうか?
自分の存在する意味がわからない→自分の価値を認めてほしい→中国人の悪口が書いてあった
→自分は日本人だから中国人より上→刹那的な快感
差別はだめだと批判すると、また、差別の炎を広めることになってしまうこともあり、
根が深い問題です。縄文人も差別したのでしょうか?
おさかなくんが、「海の魚はいじめがないけど、水槽の魚にはいじめがある。」というようなことを言っていたのが気になっています。差別する人は水槽に入れられているのかもしれません。
競争主義社会という過酷な水槽の中で泳がされていると、人間性もすり減ってくるのかもしれません。
この水槽から抜け出す方法は?
かつては文学があったかも・・・。今はなんだろう。
念のため、差別がだめなことは断言しておきます。
中津十三さんは「絶対にそんなことは無い」とか「そう考えるのは絶対に間違っている」とおっしゃられると思いますが、「日本や日本人を差別し、貶めているのは韓国や中国の方だ」「あいつらの方が悪い」と恨みに考えている日本人が多いからこそ、「中国・韓国への罵言に等しいような記事」に需要があるのではないでしょうか?
また、日本の権力者や財界、ネットウヨクとやらや、反韓運動市民団体、そしてアメリカを「貶めている」ような文章をネットや地方新聞の記事などでちらほらと見かけますが、「そういった記事があるのは当然だ」「貶められる対象が悪い」と考える人もまた多いのではないでしょうか?
さらに、中津さんもまた中国・韓国、山本太郎参議院議員、みのもんた氏へのネガキャンを展開する週刊誌を「“貶めること”で生き残ろうとする」「貧すれば鈍す」として軽蔑し、非難をされておりますが、そういった週刊誌側からすれば「貶められた」と思われるような非難発言も、中津さんからすれば「そういう言われ方をされるのは、相手の方が悪いからだ」と考えられているのではないでしょうか?
差別の根底にあるのは「相手の方が悪いから、こういう事をされても当然だ」という意識ではないでしょうか?
「他者を貶める」ような発言をしている人間からそのような意識が克服できない限り、「日本雑誌協会の定めた『雑誌編集倫理綱領』」とやらを掲げても、問題の根本的な解決には到底至らないのではないでしょうか?
ここで1首 言論の自由の敵は弾圧より遠慮と想う憲法記念日
花田様
今は文学界隈も酷い差別が満ち満ちています。
いや、記事にあるように出版界全体が酷い状況。
本屋さんに行くと中国韓国は汚い、日本はなんてすばらしいんだという内容の本がいっぱい。
私は出版会に何も期待していません。
かといってネットにも期待していません。ネット右翼(ネトウヨ)という言葉もあるくらいですし。
日本にはもはや絶望しないのかもしれませんね。
2人とも同じ政治家で、2人とも同じ「太郎」という名前の人。
一方の太郎の失態には、「水に落ちた犬はさらに打て」とばかりの非難をして、対象を侮蔑し貶め、嫉妬と憎悪を煽り、「それはその太郎の本音であり本心だ」などと弁明の余地も与えずに一方的な「太郎」攻撃を正当化する。
ところが、もう一方の太郎の失態には、他者が「水に落ちた犬はさらに打て」とばかりの非難をして、対象を侮蔑し貶め、嫉妬と憎悪を煽ったら、「今の世間の騒ぎ方はどう考えても異常」「バランスと冷静さを欠いている」「『やむにやまれずした熱い思い』をわかっているのだろうか」「今までマスコミや政府がちゃんと扱わなかったから、起こるべくして起こった『事件』なのだ」「悪意は全くない。責めないでほしい」「これまでやる人がいないからと言って嫉妬しちゃだめだよ」としきりに擁護する。
「さて問題、一方の太郎と、もう一方の太郎の苗字は何でしょうか?」と問われれば、答えは簡単でしょう。
しかし「同じ政治家で、同じ太郎という名前の2人なのに、一方の太郎はどうして攻撃的で差別的な仕打ちをされ、もう一方の太郎にはしきりに擁護され支持されるのか?」と問われれば、答えはなかなか難しいのでは?
「前者の太郎が悪で、後者の太郎が正義だから」と言われれば返す言葉もありませんが、「憎悪や差別を抑止し、バランスと冷静さを世間に取り戻させる」事が目的ならば、2人の太郎は「公平」に扱われるべきでしょう。