前回、沖縄・高江でのヘリパッド建設阻止行動に参加した報告をしたが、この土・月に挟まれた11日(日)は、伊江島まで足を延ばしてきた。本島北部の本部港からフェリーで僅か30分だ。
伊江島と言えば、阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんの反基地闘争が思い出されるが、私は実際に行ってみたことはなかった。今回の旅ではまず、その阿波根さんがつくったわびあいの里にある反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」に向かった。門に設えられた金城実さん作の大きな鬼の面が出迎える。
資料館に足を踏み入れると、戦中から米軍統治下での生活用品や新聞記事、それを記録した写真、さらに米軍の薬莢や核模擬爆弾、有刺鉄線などが所狭しと展示されている。そのどれもが胸に迫る。館内に掲げられた「設立のこころ」には、「”がらくたの山”が人間の『おろかさ』と『たくましさ』を学ぶ資料」であると書かれている。
戦前、伊江島には東洋一といわれた飛行場が日本陸軍によって建設されていた。米軍は1945年4月1日に沖縄本島に、同16日に伊江島に上陸。21日までの戦闘で、島民1500人、日本軍2000人、米軍800人が命を落としたという。生き残った島民は慶良間諸島などに収容され、帰島が許されたのは2年後。その間に米軍は島民の土地を占拠していた。
米軍と隣り合わせの島民には銃弾や爆弾による被害が頻出。さらに1953年に布告された「土地収用令」によって、強制的な土地接収が始まった。いわゆる「銃剣とブルドーザー」だ。窮状を訴えるため、そして生きるために阿波根さんは「乞食行進」を始め、沖縄本島を縦断した。これによって情報管制下にあった沖縄の人々は伊江島の実情を知ることになり、その後の「第1次島ぐるみ闘争」へと発展することになる。
これだけの暴虐を振るわれながらも阿波根さんの闘いは、非暴力に徹したものだった。「沖縄のガンジー」と呼ばれる所以だ。1954年11月23日に定められた「陳情規定」には、こうある。
一、反米的にならないこと。
一、怒ったり悪口を言わないこと。
一、必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと。
一、会談のときは必ず坐ること。
一、集合し米軍に応対するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
一、耳より上に手を上げないこと。(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったといって写真をとる。)
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、人道、道徳、宗教の精神と態度で接衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
一、このお願いを通すための規定を最後まで守ること。
現在の伊江島はのどかで、一見戦争の傷跡などは目立たない。しかし、本島に面していない側にはこの島の34%を占める米軍基地(伊江島補助飛行場)があり、着陸帯の拡張工事が進んでいる。近づいてみると、境界に立てられたフェンスが延々と続いていた。
高江や辺野古に比べて伊江島の基地問題の注目度は低いが、その3カ所のトライアングルが完成すれば、沖縄本島北部全体をMV22オスプレイやステルス戦闘機F35が飛び交うことになるだろう。
翁長雄志沖縄県知事による辺野古埋め立て承認取り消しをめぐる裁判で、最高裁は20日、国の請求を認め、県敗訴の判決が確定した。これを受けた翁長知事は記者会見で、「日本国憲法が適用されなかった米軍統治下時代、苛烈を極めた米軍との自治権獲得闘争を、粘り強く闘ってきた沖縄県民は、日米両政府が辺野古新基地建設を断念するまで闘い抜くものと信じております」と述べたという。これはまさに沖縄の闘いの原点である阿波根さんの精神ではないか。
(中津十三)