6月12日付朝日新聞の「声」欄で、「『ヘイトデモ阻止』手法に疑問」という投書が掲載された。5日、川崎市中原区で実施されそうだったヘイトデモを、市民の阻止と警察の説得で中止に追い込んだ記事を読んでのものである。
内容はこうだ。私はヘイトスピーチには反対だが、言論活動の一環であるデモを、数を頼みに封殺する行動に疑問を覚える。逆の立場になったらどうするのか。双方による話し合いはできなかったのだろうか…。
私はこれを読んで、ヘイトとはどういうものであるかという人々へのさらなる周知の必要性とともに、何でも相対化したがる心情の根深さを思った。
まずは、最初在日コリアンが多く住む川崎区桜本地区で計画されていたヘイトデモを、横浜地裁川崎支部が差し止めた仮処分決定書に目を通していただきたい。長いので、「第3 当裁判所の判断」のみでよいだろう。
先の投書の表現を借りれば、数年前から「数をたのみに取り囲ん」でいたヘイト側に対し、憲法の定める人格権とともに対策法施行によって、やっと止まったのが5日の川崎だった。
また、国連人種差別撤廃委員会によるヘイトスピーチ規制を促す勧告(2014年8月)など国際的な要請も重要だ。ヘイト野放し国と認定されているも同然なのだ。
そもそもヘイトスピーチは「言論の自由」に含まれるものなのだろうか。欧米では言論の自由を保障する一方でヘイトに対して規制することをためらわない。これは、ナチスによるホロコーストの否定や黒人への人種差別という現在進行形の問題を抱えている煩悶からの結論なのだ。
ヘイトスピーチは、社会の多様性と人間の尊厳そのものを標的にする「魂の殺人」だ。言論の自由を金科玉条とする人は、その刃を向けられた当事者の心になぜ寄り添えないのか。
参院法務委員会理事の自民・公明議員が、桜本地区を訪れて以降ヘイトスピーチ対策法の成立に寄与したことは、現場を見ることの重要性を示している。
もちろん現場を見られない人もいる。興味ない人もいるだろう。そうした人にもヘイトの事実を伝え続けるしかない。
そしてマスコミは、まずはヘイトスピーチをカッコ内で示すときに「憎悪表現」ではなく「差別煽動表現」と表記するところから始めていただきたい。ヘイトは、「ただの悪口、暴言」ではないのだ。
(中津十三)
ヘイトスピーチは言葉のレイプだ。マイノリティーに対して、聞くに堪えない罵詈雑言をまるで射精するかのように浴びせかけ、やがて恍惚とした表情を浮かべる。見ていて不快だし気持ち悪い。