水俣病の語り部である金子スミ子さんが4月9日、84歳で亡くなった。今年は水俣病公式確認から、5月1日で60年を迎える。
金子さん一家は、まさに水俣病に翻弄され、苦悩を強いられた人生だった。若くして水俣病で夫を亡くし、長男は認定患者、次男は生後まもなく死去、三男の雄二さんは胎児性の患者だ。のちにスミ子さん自身も認定を受けた。
1950年代前半から「奇病」として社会問題になっていた水俣病は、その原因をめぐってさまざまな議論が行なわれてきたが、それと平行して、生まれてくる子どもたちの脳性マヒに似た障害も大きな問題となっていた。
雄二さんは、故原田正純医師と出会い、彼らの研究によって胎児性水俣病であることが立証された。それまで、胎盤は毒物を通さないと信じられていたので、その衝撃は大きかった。いわば「環境を汚すことは、未来のいのちである胎児を汚染することになる」というメッセージを発していたのだ(水俣市立水俣病資料館)。
スミ子さんはつらい体験をずっと心の中に封印してきた。企業や国による分断、市民や患者同士の反目、襲いかかる偏見…。しかし、孫娘たちに背中を押されて2002年から、水俣病資料館で語り部を始めた。また、小児性・胎児性患者のための支援施設などの設立にも尽力した。
苦悩を乗り越え彼女たち語り部が語ることで、水俣病の罪深さと醜さ、患者の怒りと悲しみ、そして問題意識が、どれだけの人に広がったことだろう。体験継承の重要性を痛感せずにはいられない。
2013年の水俣病犠牲者慰霊式で、スミ子さんは「祈りの言葉」として次のように語っている。
私は世界中の女性に、私のような妻として母としての苦しみを、決して味わってもらいたくないと思い、水俣病資料館の語り部になりました。これからも体の許す限り語り続けてまいります。子どもたちが生きている限り、水俣病は終わりません。
どうか最後の一人になっても忘れないでください。
そう、水俣病は終わっていない。
筆者は4年前、水俣を訪れ、水俣病資料館などを見学した。漁民や被害者の存在そのものを否定した水俣病のおぞましさと、水俣メモリアルから見下ろす不知火海の美しさのあまりのギャップに当惑したことを思い出した。金子スミ子さんのご冥福を心からお祈りする。
(中津十三)