在特会らレイシスト集団が東京・霞が関の経済産業省前脱原発テントを10月4日に襲撃する、という予告があったが、対抗するカウンターの人々によって近づけさせず、撃退できた。
しかし、カウンターに参加した人によると、足止めさせていたレイシストを公安警察官が街宣場所へ誘導した挙句、抗議するカウンターに対してこう言い放ったという。「お前らも(レイシストと)同じだろ」と。
「レイシストもカウンターも、どっちもどっち」という認識でレイシストを守り、そのヘイトスピーチ垂れ流しを黙認した公安。レイシストと公安が結託していることは公然の秘密だが、それがあからさまになったと言えよう。
私は、「どっちもどっち」というその認識から、東海テレビの公共キャンペーンスポットCM「戦争を、考えつづける。」を連想した。
在特会のヘイトスピーチと、それに対抗するカウンターを取材する東海テレビの20代の記者。無批判にヘイトスピーチを流し、出されるテロップには「憎しみが、ぶつかり合っている。」「戦後70年目の、日本の風景です。」とある。
差別者と抗議者を同列に置く、メディアとしての「差別」への鈍感さに呆れるしかないが、何と驚くべきことに、このテレビCMは日本民間放送連盟賞(優秀)を受賞しているという。
「差別をやめろ」と言うことは「憎しみをぶつける」ことなのか。そして、この「どっちもどっち」論の根深さは、いったい何なのだろう。両論併記の楽さ。公正中立を名乗れる。高みの見物ができる…。
何より「差別はいけない」というのは、この社会における基本的な概念ではなくなったのだろうか。
もしカウンターがおらず、公衆の面前で白昼堂々ヘイトスピーチがなされても、それは仕方ないのか。ヘイトスピーチには、それで傷つく人がいる。カウンターは大音量で「帰れ!」「差別するな!」と言うが、それはヘイトスピーチをかき消すのが目的であって、憎しみのためではない。
取り締まる対象としか見ない警察と、表層的にしか見ることのできないメディア。そこには「差別を許さない公正さ」は微塵もない。
絶望感にかられても、私たちは、何度でも何度でも、「差別はいけない」と言い続けるしか道はないのだろう。
(中津十三)
茨城県の地方紙「常陽新聞」に、茨城県つくば市で大阪朝鮮高等学校ラグビー部のドキュメンタリー映画「60万回のトライ」上映会が10月2日に行われた、との記事が出ていました。http://joyonews.jp/smart/?p=15042
記事では映画監督のコメントを紹介する形でヘイトスピーチを批判していましたが、このような報道をする新聞が茨城県では1社のみで、茨城県に支局がある東京新聞すら報じていませんでした。
記者の問題意識の劣化だけでなく、事なかれ主義の新聞編集者、それを良しとする市民意識の劣化など、差別を是認する市民が増えています。
「どっちもどっち」論には強い違和感を覚える。
ちょっと前にコンビニの店長が別のコンビニで万引きした、というニュースがあった。万引きをした店長も、きっと自分のコンビニで万引きの被害にあっているのだろうと思う。
さて、この店長と、その店長のコンビニで万引きをした犯人とを「どっちもどっち」と呼ぶだろうか。
「どっちもどっち」とは、どちらか一方が悪いとは決めつけにくい、という意味だ。つまり、複数の対象の「悪さ」を比較して出てくる言葉である。
このコンビニの例で言えば、単に、万引き犯が複数いるだけであり、「悪さ」を比較する必要はない。
ヘイトについても同じではないか。在日韓国人に対するヘイトを行う人間は悪いし、在日米軍に対するヘイトを行う人間も悪いし、あるいはそれらに対して暴力で対応するならそれもまた悪だ。それらは独立して悪なのであって、決して「どっちもどっち」ではないだろう。
ミュージックマガジン10月号の堂本かおる氏の「アメリカでは今も黒人が警官によって殺され続けている」はとてもショッキングな記事だと思った。これだけ差別が横行している国の大統領が、他国に対して人権問題について申し入れをすることが恥知らずな行為でないとしたら、国連人権週間に、アサドと金正恩に基調講演をさせてもいいのではと思えてしまう。