久しぶりに「文藝春秋」を手にした。いつの間にか活字が大きくなっていて、新聞と同様に、読者の高齢化が進んでいるのだろう。
手に取ったのは、この8月号に掲載されている習近平暗殺計画の記事に興味を持ったからだが、それとは別の、二階堂ふみさん「是非ではなく『戦争の悲劇』を考えたい」という記事に目が留まった(この記事の一部はこちらで読むことができます)。
二階堂ふみさんは、1994年那覇市生まれ。まだ20歳だが、演技力と存在感が抜きん出た実力派女優だ。園子温監督『ヒミズ』ではヒロインを演じ、ベネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞(最優秀新人賞)を受賞。また2014年には熊切和嘉監督『私の男』では、ニューヨーク・アジア映画祭ライジングスター・アワードを受賞するなど、国際的な評価も高い。
この記事は、彼女が主演する今夏公開の荒井晴彦監督『この国の空』とのタイアップのようだが、そこでの発言に以下のようなものがあった。
私はもともと「反対」という言葉が好きではなくて、どんなことでも、一概に「これは良くない」「間違っている」とは言いたくありません。言い切ってしまうのは、分かりやすく簡単ですが、見えなくなってしまうこともあると思うんです。
この気持ちは、自分でも少し分かるだけに厄介だ。確かに、いつの頃からか「反対」という言葉に対するアレルギーが生まれた。否定的、非生産的であり、後ろ向きで何も提示していない、という印象がある。野党のことを「何でも反対」と揶揄することもしばしばだ。
さて、正常性バイアスという言葉がある。『現代用語の基礎知識2014』には、「異常事態が起こっても、それを正常の範囲内のこととしてとらえ、心を平静に保とうとする働きのこと」とある。
異常事態――、そう、今や安倍政権による憲法クーデターの進行中だ。そんな中、賛成でない人が「反対」と言うことをためらうのは、正常性バイアスならぬ「中立性バイアス」ではないのだろうか。先の引用の続きにはこのようにある。「度が過ぎると、震災など本当に危険な場合にも避難などの対応の遅れにつながりかねないことが指摘されている」
二階堂さんの記事の前段には、彼女が沖縄戦を経験した祖父母からの話を聞いたり、学校で平和学習の機会を多く受けたことも書かれている。その彼女ですら「反対」と容易に言えないというのは、世の中に巣食う「中立性バイアス」の根深さを示しているように思える。
逆に言えば、それをブレイクスルーできたのがSEALDsの若者たちなのかもしれない。
戦争反対、と声を上げることに「留保」が必要とは思いたくない。(中津十三)
「賛成ではないが『反対』とは言おうとしない。」 これは、日本の社会的風土に支えられ長い年月をかけて育まれてきた日本人の気質である。 戦後間もなく日本にに滞在していた著名な米国人、この日本人の気質を悲劇的な欠点である、と指摘した。この傾向が小泉政権以降改善はもとより悪化の一途を辿っている。 なぜだろうか。「自立心」を失い、自分に自信を持てない結果だろうか。とにかく老若男女問わず、廻りの評価を常に気にしながら生きている人達が蔓延しているのだ。 官民問わず、組織の不祥事、政治の劣化、全てはここに起因していると言っていいだろう。まさに悲劇的欠点だ。この欠点は、立憲民主主義をも破壊する力を潜めているのだ。
先日、戦後思想70年を巡るシンポで”音楽、文学、映画、アートなどカルチャーに政治を持ち込むのは野暮と腐したのは、吉本隆明が始まり”と言っていたことを連想しました。ツイッターとか見ていると、ネトウヨが都合の悪い発言を見つけて”政治的な事を言うな”と書き込むのをよく見ます。でも、百田センセイには言わないようで、政治という言葉が孕む政治性の良い例ですね。
生きるということはすべてが政治であり、個人的なことも全て政治であります。
二階堂ふみ嬢はプロモーションでしょうし、劇団出身じゃあないようだしそんなもんでしょう。なかなか、シェリー女史のようなわけにはいきません。
島さんのコメントに同感です。私の周りは「賛成ではないが『反対』とは言おうとしない。」人ばかり‥ようやく少しざわつき始めましたが、尻込みしている人、日本が異状事態であることを認識していない人が圧倒的に多いと感じています。今、動かないと動きたくても身動きとれなくなることをどうやって伝えればいいのか試行錯誤しています。
本稿の論旨に大賛成です。日本の芸能人の発言を見ていると、日本には何の社会的な問題も存在しないかのように思える。沖縄出身の芸能人が一時期から、どっと増えたことがあるが、彼らの発言の中に沖縄の基地問題が存在することを、窺わせる様なものに出会ったことがない。芸能人は本人たちは一応表現者であるとの思いはあるのかもしれないが、日本の芸能界の中に殆ど政治的発言をする人がいないのは、彼らが本質的に切実な表現をしていないからだと思う。表現というのは、その表現者が属している社会の現実と必ず接点を持つはずなのだが、日本の表現者の表現を総体としてみると、日本には、原発問題も、安全保障問題も何の問題も存在せず、せいぜい東大卒エリートへのルサンチマンが存在するだけの様に見えてしまう。私は、別に安保法政賛成、原発推進を主張する芸能人がいてもよいと思う。私は、ブッシュ氏のほとんどの政策に批判的だが、ブッシュの911への対応を指示したブリトニースピアーズや、リンプビズキットの曲を聴くこともある。別に皆がピストルズやクラッシュの様な表現をしろといっているのではない。中には中立という人もいてもおかしくない。でも、昨年の紅白の桑田佳祐氏や、菅原文太氏のような人がほとんど出てこず、また出てきたとしてもキャリア上のリスクが少ない人たちばかりが多いという事だ(この点で私は山本太郎氏を尊敬する)。結局のところ、日本の芸能人の芸は、その人が何らかの政治的立場を表明すれば、すぐに干上がってしまう様な、底の浅い芸なのだと思う。だから私は日本のドラマも音楽も殆ど関心がない。