安保法制、というより戦争法制の国会での議論が混迷を深める中、先週金曜日(12日)夜は官邸前と国会前、日曜日(14日)には、昼の国会包囲には参加できなかったのだが、夕方からの渋谷デモの列に加わった。
国会前と渋谷デモは、先週の小欄でも紹介したSEALDs(シールズ)が呼びかけた行動だ。彼ららしく、ともかく若い人が多い。若くない筆者はせめてもの頭数になるべく、後方で。実に活気に溢れたデモだった。
SEALDsの前身、SASPLが昨年10月に主催した「特定秘密保護法に反対する学生デモFINAL@SHIBUYA」のときにも感じた、「諦め」と「見ないふり」を吹き飛ばす力を、この日も感じた。と同時に、彼ら若者や自分も含め数千人がわざわざ集まり、抗議の声を上げることの根源を考えた。
抗議することは面倒くさい。流されたほうが楽。反対だと思っても、わざわざその場に行って意見を表明するには、体力も時間も交通費もかかる。この日のデモも、沿道から支持の声が上がる一方「うるさい」「邪魔だ」とも言われたし、ネット上での毀誉褒貶は毎度のこと。それでも声を上げずにはいられない。
いま安倍政権が成立させようと躍起になっている安保法制に対して、さまざまな反対の声が巻き起こっている。戦後70年積み重ねてきた平和への思い、自衛隊員の命や心の心配、憲法を蔑ろにする姿勢への怒り、ファシズムの萌芽に対する恐怖…。その気持ちをどうするか。
PCやスマホの画面相手での意見交換だけではなく、街頭で声を上げる。身体性の獲得とでもいうのだろうか。その声は可視化される。その場にいた人の目に留まる。共感か反発か、何らかの感情を引き起こす。場合によってはマスメディアやネットメディアが取り上げる。さらに多くの人が見る。そこにも感情が生まれる。
たとえば7日行なわれた東京・新宿での自民党の安保法制街宣への抗議。登壇した谷垣禎一幹事長らへ反対の声が浴びせられたというが、映像を見ると、組織立った人々はほとんど見受けられない。情報が拡散され、それに呼応した人が自発的に集まったのだろうか。
「運動のうねり」などと呼ばれるものも、最初は小さいのだろう。一人ひとりが移した行動がやがて大きなうねりになっていく。
意思表示する人々に心からの連帯を表明する。私たちは一人ではない。一緒に歩こう。声を上げよう。(中津十三)