新聞1面下のコラムは、その新聞の「顔」だ。朝日なら「天声人語」、毎日なら「余録」、読売なら「編集手帳」。各紙きっての名文記者がペンを揮うと言われる。思い返すと、深代惇郎、諏訪正人といった名前が浮かぶ。
さて、現在の日本で最もジャーナリズムを感じさせる新聞のひとつである東京新聞のそれは「筆洗」だが、2009年秋から2013年秋まで4年間の掲載分がまとめられて一冊の本になった。タイトルはそのまま『東京新聞の「筆洗」』(廣済堂新書)。
執筆した瀬口晴義記者は、1987年中日新聞社に入社し東京本社(東京新聞)社会部に配属、その後長く司法記者として活躍した。この筆洗執筆者を務めたのち、社会部長となり現職。その署名記事は、小欄でも取り上げたことがある。
「筆洗」で言及したテーマごとに「政治」「社会事件・文化」「国際社会」「訃報」などに章分けされるが、中でも、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故についての第2章、第3章は、4年以上が経ち忘れがちになっている自分をあの当時に引き戻してくれる。
例えば、地震発生から1カ月ほどの2011年4月18日付から抜粋する。
瓦礫の中に「消息を探しています」と名前が書かれた立て看板があった。その文章は後から黒いペンで消されていた。無事が確認されたのか、それとも…▼放射線の数値が下がった福島第一原発から半径十キロ圏内で、ようやく本格的な捜索活動が始まった。国は復興に走り始めたが、喪の時間を必要としている人たちの存在を忘れてはならない。
また、この年の7月24日付。
経済産業省資源エネルギー庁が、原発に関するメディア情報をチェックしていたことが本紙の調べで明らかになった。(中略)▼原発事故後は、例年の数倍の約八千三百万円に事業費が増額され、ツイッターやブログなどを通じて一般市民が発信する情報の監視に重点を置いている▼監視されるべきなのは、情報を隠してきた政府や電力会社自身だ。
瀬口記者は病気をきっかけに事件記者から離れ、多くの戦争体験者を取材するようになったという。そうした経験が生きているのが戦争・平和問題についての第5章だ。
2013年6月23日付。この日は沖縄慰霊の日だ。
戦後七十年近くたって沈黙を破る人がいる。生きることに必死だった時は封印していた辛い記憶がよみがえり、精神的に不安定になる人もいる▼今もなお、捨て石にされている島には、血がしたたるような痛みや疼きを抱えて生きている人たちが無数にいることを忘れない。
彼が社会部長になったあたりから、特定秘密保護法の問題点を識者に聞く「秘密保護法 言わねばならないこと」の掲載、金子兜太さん、いとうせいこうさんを選者に迎えての「平和の俳句」の募集など、戦後70年の今、新聞の使命として「二度とこの国に戦争をさせない」ための紙面づくりに、中日新聞グループ全体で取り組んでいるようだ。
瀬口記者は「はじめに」でこう書いた。
東京新聞は時の政権を批判することも多いが、権力を厳しく監視する役割を果たすというスタンスは昔から変わっていない。その軸足はぶれていないのに、政治家の勇ましい言説が容認されるような社会に変わってきたのだと思う。
権力におもねってのジャーナリズムなど語義矛盾だが、それが幅を利かせているのが現実だ。そうした中で奮闘する東京新聞にエールを送りたい。(中津十三)