先日、長崎への旅行の折、浦上の住宅街の中にある「長崎市永井隆記念館」を訪れた。
永井隆の名を聞いて即座に反応される人は、やはり50代以上だろうか。となると、永井がどのような人物か説明しなくてはならない。
彼は1908年、島根県に生まれた。旧制松江高校から長崎医科大学に進み、卒業後同大学で放射線医学者の道へ。戦時中は国民病といわれた結核の検診に力を注いだが、物資(フィルム)不足で透視による診断を続けたため被曝し白血病を発病。1945年8月9日、大学附属病院で被爆し、重傷を負いながらも懸命の救護活動を続けた。
原爆によって妻を失ったが、カトリックの信仰と、疎開で助かった2人の子どもを心の支えに、永井は病に侵されながらも、「如己堂(にょこどう)」と名づけた二畳一間の小さな建物(記念館に隣接し現存)で執筆を始める。その著書『この子を残して』『長崎の鐘』などはベストセラーとなり、全国に感動を与えた。
ローマ教皇特使やヘレン・ケラーらも訪れ、世界的に有名になった永井だったが、1951年5月1日、白血病の悪化により、43歳の若さで死去。浦上天主堂での市公葬には市民2万人が参列したという。
先述の著作を題材にしたサトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌の『長崎の鐘』は大ヒットし、今も歌い継がれている。さらに『君の名は』などで知られる大庭秀雄監督によって松竹で映画化されているので、これによって人々に大いに知られることになった。
さて、記念館はこぢんまりとした造りだ。1階は展示室、2階は図書室。ビデオや展示物で永井の生涯を追うことができる。若き日の賢そうな面差し、信仰との出逢い、達者な書画、妻や幼い子どもたちとのふれあい…。そこには「聖人」ではなく、永井隆という、父であり、夫であるひとりの人物がいる。
「一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。」(『この子を残して』より)
病気や被爆、妻の死などに苦しみながらも、信仰を捨てず、平和を希う永井の思いが伝わる展示だ。それは、隣人愛、家族愛に根差した「平和」。大上段に振りかざさずとも、胸に迫ってきた。
館内の展示物より。
今年は戦後70年、即ち被爆70年でもある。偶然見たNHK長崎放送局制作の『平和のしゃべり場』“若者たちが伝える平和”(3月27日19:30~、長崎県域のみ)では、長崎市内で平和活動を行なっている10代から30代の人々が、その悩みや葛藤、活動に込めた思いを語り合っていた。記憶の継承は、この地でもやはり大きな課題だ。
戦争体験の継承をいかにすべきかは本当に悩ましい。しかし、体験者が直接語らずともその継承者が、聞く人の心に訴えかけられるものはあるはずだ。永井隆記念館では、その端緒に触れた気がした。(中津十三)