桂米朝さんの訃報に、落語ファンとして、未だに心の整理ができずにいる。
出囃子「三下がり鞨鼓」に乗って、姿勢よく袖から現れ、見台を前に座りかちりと小拍子を鳴らして一礼する。あの品のいい高座がもう見られないかと思うと、本当に悲しい。この出囃子は息子・小米朝さんの5代目米團治襲名を機に彼に譲り、米朝さんは「都囃子」にした。
落語家としてはもちろんのこと、数々の著書を残した落語研究家としても一流だったことは間違いない。孫弟子・曾孫弟子・玄孫弟子を含めた米朝一門は70人ほどにもなる。枝雀、吉朝という有望な弟子に先立たれたのはさぞかし無念だっただろうが…。
まとまらぬまま、米朝さんにまつわるエピソードを3つほどご紹介したい。
その一
米朝さんに、本来は大阪落語の大看板・桂三木助襲名の話があった。自身も乗り気だったが、これを機に、所属していた芸能事務所から大事務所に移籍するよう勧められた。しかし義理堅い米朝さんは頑として応じず、8代目桂文楽、3代目三木助の師匠である6代目春風亭柳橋ら東京の長老の了承を得ながら話は流れてしまった。
襲名に奔走した香川登志緒(演芸作家、その後登枝緒)に米朝さんは謝り、「きっと米朝という名前を大看板にしてみせますから」と約束したという。その後も大事務所には籍を置かず、1974年、自身の芸能事務所である米朝事務所を設立。漫才偏重の関西にあって、演芸場ではない場で聴く落語会を確立した。「米朝」が押しも押されもせぬ大看板になったのは言うまでもない。
その二
米朝さんはポリシーとしてテレビCMに出演しなかった。しかし、司会を務めていたテレビ番組「ハイ!土曜日です」で角膜移植のためのアイバンクを紹介したことをきっかけに、公共広告機構(現ACジャパン)のCMにはボランティアで出演した。
ご記憶の方も多いだろう。このCMは、1983年のACC(全日本シーエム放送連盟)賞で、ラジオ部門グランプリ、テレビ部門秀作賞などを受賞した。全国のアイバンクには登録の申し込みが殺到したという。
その三
米朝さんは「九条の会・おおさか」の呼びかけ人の一人でもあった。会のホームページで、メッセージを残している。
空襲で、まだ5歳ぐらいのいとこが火だるまになって死にましてな。戦争いうもんがどんなに辛い切ないもんかいうことを、やはり体験した者が語らなあかんでしょうなあ。ホンマに憲法九条は大事にせなあきませんわ。
米朝さんの声が、立ち上がってくるようだ。あらためて、合掌。(中津十三)