IS(自称イスラム国)による日本人人質事件は私たちに衝撃を与えたが、それを報じる新聞の見出しに目を疑った。
2月2日付の読売新聞3面の見出しは「救出かけた首相歴訪」。しかし今回の中東歴訪の国々は、エジプト、ヨルダン、イスラエルと続き、最後にパレスチナ。これらISに対応する各国への支援が大きな目的だったはずだ。
後藤健二さん、湯川遥菜さんの殺害予告が出てから安倍首相は初めて人質事件について言及し、イスラエル国旗の前で声明を出した。そのドタバタぶりは誰の目にも明らかで、救出要請が目的のひとつだったなど、そんな話は聞いたことがない。
記事に目を通すと、今回の中東歴訪でヨルダン国王と会談した際、安倍首相は解放に向けて協力を求め、国王に頭を下げたという。「講釈師、見てきたような…」と言うが、まるでその場に記者がいたような書き方だ。
この記事の隣に配置された社説「『イスラム国』の蛮行を糾弾する」でも、安倍政権の標榜するいわゆる「積極的平和主義」のさらなる拡大を主張し、後藤さんに対し「自己責任論」を展開するなど、まるで政権のスポークスマンだ。
小欄で読売新聞のことを「まるでプラウダだ」と批判したことがあった。プラウダはソ連共産党機関紙だから、自分に都合の悪いことを載せないのは当然。しかし、政府権力から独立しているはずの新聞が、わざわざ迎合して紙面を作っているのだから、これではプラウダ以下だ。
このニュースが報じられる前日、1日付の東京新聞では、隔月連載の特集「問い直す戦争 70年目の視点」で、昭和初期の新聞の戦争責任について1、3、10面で展開し、読み応えある記事となった。3面では、瀬口晴義社会部長がこの記事に連動し「伝えるべきこと 伝えているか」と題して署名コラムを書いている。
軍部の検閲もない。連合国軍総司令部(GHQ)の検閲もない。けれど、私たちは、伝えなければならないことを本当に伝えてきたのだろうか。その自問はいま、さらに強まっている。本紙も含めて新聞は軍部の宣伝機関になった。メディアは今、教訓を忘れかけていないか。
新聞にはさまざまな使命や役割がある。一番大きな使命は二度とこの国に戦争をさせないことである、と私は思う。「国民の知る権利に応えて真実を追求し続けることが、戦時報道の反省に立つことなのだ」(前坂俊之氏)。特定秘密保護法が施行された今、政府の宣伝機関に堕していては使命を果たせない。
読売記者は、このコラムを読んで、何か思うことはあるのだろうか。(中津十三)
>この記事の隣に配置された社説「『イスラム国』の蛮行を糾弾する」でも、安倍政権の
>標榜するいわゆる「積極的平和主義」のさらなる拡大を主張し、後藤さんに対し
>「自己責任論」を展開するなど、まるで政権のスポークスマンだ。
:
はい、これが読売の社説です。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20150201-OYT1T50131.html
中津さんの読解は、これを現代文の読解問題にしたら赤点解答ではないでしょうか?
「積極的平和主義」なる言葉はひとことも社説内では使われていないし、「自己責任」という言葉も、「自己責任だから国は被害者を助けなくていい」という一般的な「自己責任論」とはニュアンスがまるで違う文脈で使われています。
「政権のスポークスマン」というレッテルが当てはまるのは、『イスラム国 全ての手段で壊滅させよ』という今月4日の産経の社説でしょう。
さて、中津さんだけではないですが、多くの左側の人がISILに対する恐怖と狼狽に陥り、前後不覚になっています。
しかし、後藤さんの死の直前の表情を思い返すと、生ある私たちがいつまでも恐怖と狼狽に陥ったままでいては、彼の無念に報いることができないのではないでしょうか?
忸怩たる思いの記者もきっといるとは思う。しかしよみうり総体としてはまさしく御用新聞であり、とてもではないが読む気になれない。NHKも似たり寄ったりの感が強い。悪貨良貨を駆逐するがごとく、良心のある人はそこに残れないという状況もあるようだ。戦後が終わり、戦前へと向かっていくようで恐ろしい。