この正月、実家に帰るなどして家族や友人知人と再会した人も多いのではないだろうか。私事で恐縮だが、このようなことがあった。
久しぶりに会った家族や親類と食事や酒がすすみ、会話もはずんでいたのだが、ある人が新聞の話題を振ってきた。すると、私の父が朝日新聞批判を滔々と語り始めたのだ。そして「慰安婦はいなかった」と…。
酒が入っている上に咄嗟のことで、最初唖然としてしまったのだが、反論。しかし「まあまあ、こういう席でなんだから」と他の人にたしなめられ、とりあえず場は収まった。その後の酒は苦いものだった。
おおっぴらな嫌韓嫌中やヘイトではないが、朝日新聞の「吉田証言」撤回・謝罪が、イコール「慰安婦はいなかった」になってしまう人は多いのかもしれない。小欄でも取り上げたが、他メディアが鬼の首を取ったようにバッシングすれば、少なからぬ人が誘導されてしまうだろう。
歴史修正主義が大手を振ってまかり通っていることは分かっていても、実父でそれを実感させられるとは、さすがに悲しかった。
父には今度会って、じっくり話し合いたいと思う。もちろん、資料を持って。厳しく、難しいとは思うが、こうした身近なところから始めるしかないのだろう。(中津十三)
最初「慰安婦は強制された~」で,次に「広義の強制性があった~」,で今は「普遍的な女性の人権問題だ~」,この撤退戦の中で間違って認識される人が出てきたんですね。
ただ,慰安婦がいたなんて資料,持ってなくてもネットで検索すれば一発ででてくると思いますよ。
友人との間で同じような体験を。彼いわく、日本は悪いと信じ込まされてきたけれどそうじゃないって証拠がでてきた、と。ようやく俺たちは胸を張って「悪くなかった」って言える、と言ってました。あなたを悪人と言いたいわけじゃない。国家の政治の犠牲があったことを認識しようということだと思うんだけどなぁ。
今年は「歴史の分岐点」と言われる。ところが、この段になっても私の周りで
は政治の話に触れる人は皆無だ。なぜだか良く分からない。皆さんの声を聞きたい。