4月6日、岩手県の三陸海岸を走る三陸鉄道(三鉄)が全線で運転を再開した。2011年の東日本大震災で被災してから3年1カ月ぶり。地元紙の岩手日報は号外を発行した。一読、地元の喜びが伝わってくる。
1面に大きく「全線再開 ありがとう」と見出しを打ち、三鉄の車両の大きな写真が配されている。2、3面は「写真でたどる復旧の歩み」、4面は「ジオパーク巡ろう」、5~7面は広告や沿線グッズについての記事、8面はドラマ『あまちゃん』で夏ばっぱこと天野夏を演じた宮本信子さんのメッセージなどと、号外らしからぬ多彩な紙面だ。
この地方の鉄道の歴史をひもといてみよう。始まりは北の八戸線から。日本鉄道東北線開通後間もない1894年、尻内(現八戸)・八ノ戸(現本八戸)間が開通。1906年に買収国有化され、1930年には久慈まで全通した。また、山田線は1923年、盛岡・上米内間で開通後、東進して宮古へ、さらにそこから南下して1939年釜石に達した。
その南の大船渡線は1925年に一ノ関・摺沢間が開通し、1929年に気仙沼、1934年に大船渡、さらにその翌年に盛まで逐次延長しながら全通した。八戸線久慈と山田線宮古を結ぶのが三鉄北リアス線、山田線釜石と大船渡線盛を結ぶのが同南リアス線だ。
北リアス線は、南から宮古・田老間が1972年に、北から久慈・普代間が1975年に開通し、その間を繋いだもの。また、盛から逐次延長しながら1973年に吉浜まで北進し、吉浜・釜石間を繋いだものが南リアス線。1984年にそれぞれ三鉄南北リアス線としてスタートし、地元の悲願でもあった三陸縦貫鉄道が全通したのだ。
国鉄の分割民営化によって華々しく喧伝された第3セクター方式に転換した初めてのケースでもあった。開業初年度からの約10年間は黒字を計上し、成功と言われたものの、輸送人員の減少などで赤字に転落。合理化と観光客誘致に活路を開こうとしているさなかの東日本大震災の被災だった。
再起の動きは素早かった。被災してわずか5日後に久慈・陸中野田間を皮切りに、比較的被害の軽かった区間で次々と運転再開。着々と延びる鉄路が、地元の人々を勇気づけたのは間違いないだろう。そして先日の全線開通だ。
しかし、前途は多難なようだ。南北リアス線を繋ぐ山田線、気仙沼から盛までの大船渡線は未だに不通のまま。今年2月の被災自治体とJR東日本との調整会議で、JRは山田線と三陸鉄道との運営一体化を持ち出すなど、早期復旧への意欲がまるで見えない。
岩手県議会は国に対し、JRが責任をもって復旧するよう指導・助言を行うことを求める意見書を全会一致で採択した。JRは先述の分割民営化によって民間企業になったが、公共交通機関であることは変わりないはずだ。その責務を果たすことに、何を躊躇しているのだろうか。この機に赤字路線を整理したいと考えているとは、思いたくない。(中津十三)