伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2011年11月19日@渋谷校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

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講演者:山内徳信氏
元読谷村長・参議院議員

講師プロフィール:
沖縄県中頭郡読谷村出身。1958年 琉球大学文理学部史学科を卒業し、沖縄県立読谷高等学校で社会科教員となる。1974年 読谷村長に当選(6期)。任期中、読谷村の土地の73%を占めた米軍基地を徐々に減らしていった。村長室に憲法9条と99条の条文を書いた掛け軸を、相手に見えるように掲げた。1997年 読谷補助飛行場内に読谷村役場・村議会を移設、その後飛行場は2006年に全面返還された。1999年4月 山内平和憲法・地方自治問題研究所を開設する。2007年7月 参議院議員選挙比例区に社会民主党から立候補し、初当選。

伊藤塾では、近現代の歴史から「憲法」を学習する為に、スタディーツアーとして沖縄を訪れています。その「沖縄スタディーツアー」で、山内さんには毎年、読谷村での講演をしていただいています。
山内さんは、村の大部分の面積を米軍基地に接収されていた読谷村の村長に就任後、土地の返還や基地の縮小に尽力されました。そして2006年には米国との交渉により読谷補助飛行場が全面返還されています。その返還活動の指針となったのが「憲法」でした。
現在は、日本国憲法の平和主義の理念を実現しようと、参議院議員としてご活躍されている山内さんより、人間一人ひとりを大切にする憲法の理念の大切さを語っていただきました。

■平和憲法との感動的な出会い

 一夜にして10万人が犠牲になった東京大空襲、人類初の原爆投下、そして「ありったけの地獄を集めたもの」と呼ばれた沖縄戦・・・こうした多くの悲劇の後に平和憲法ができたとき、ほとんどの日本人はほっとして喜びを感じたと思います。私は戦後の沖縄の、土の上に柱を立てて屋根に草をのせただけの校舎で、民主主義という新鮮な言葉を聞きました。私は感動的にこの民主主義の憲法を迎えて、解放感をひしひしと感じました。

 日本国憲法は、占領軍のマッカーサーをお父さんとして、日本の幣原(しではら)喜重郎という首相をお母さんとしてできたものです。幣原は、マッカーサーに一人で会いに行って、こう言ったそうです。「私は戦争で若い人たちがたくさん死んでいった光景が忘れられない。だから日本は再び戦争を起こす事のない憲法を作りたい」と。 

 この憲法の3本柱は、平和主義、主権在民、基本的人権の尊重です。かつては国民主権でもなく、国民には基本的人権はまったくなかった。だからどんどん国民を戦場に送り込んで、喜んで戦って死ねるような人をつくり上げました。そしてアジアの国々やアイヌ、沖縄に対して徹底した差別をしました。差別した方が殺しやすいからです。でもこの憲法によって、当時高校一年生のこの山内徳信も、全ての人間に基本的人権があるということを知りました。そして戦争をしないということが憲法の中にちゃんと書かれているわけです。

 みなさんは、生まれたときからすでに憲法がありましたから、私のような感動はないかもしれません。でも日本国民にとってこの憲法は命そのものなんです。私はこの平和憲法を守りたい。私はその憲法を実践する人間として生きてきました。

 読谷の村長室には、私が退職した現在も「憲法9条」と「憲法99条(憲法尊重擁護義務)」の掛け軸がかかっています。憲法は、空気のようなものだと思います。空気がなくなったら人は死んでしまう。ふだんは自分とは関係のないような気がしているけれど、憲法が変えられたら今のアメリカの青年たちと同様に、戦場に送り込まれない保証はありません。皆さんの子どもの世代が戦場に送り込まれることのないように憲法を守って欲しいと思います。

■米軍占領下から本土復帰へ

 1952年にアメリカの対日講和条約があり、いよいよ沖縄も日本に復帰できると思ったら切り離されてしまいました。それから72年の本土復帰まで、沖縄はアメリカ軍の直接統治下に置かれます。その間、沖縄県人は人間であっても人権がない状態にありました。

 あるときは青信号で道路を渡った中学生がひき殺されて、ひき殺したアメリカ兵は無罪になってアメリカに帰りました。あるときは演習場の近くで仕事をしていた人を撃ち殺して、「イノシシと間違った」と言い逃れをして許されました。こういう状態を植民地というのです。沖縄県人には思想信条の自由も、組合結成の自由もありませんでした。これじゃいかんと、自分たちにも人権があるんだと、そして人権を保障している憲法を持つ、日本のもとに復帰をしようと、復帰行進をしました。それは壮大な闘いでした。「網の目行進」と言って村から村へ沖縄中を全部回るんです。大人も子どもも一体になって、統治者の米軍への抵抗も含めて復帰運動を徹底的にやりました。

 それでアメリカは、直接統治よりも日本に返還した方がいいと思うようになってきます。それで復帰に成功するわけです。しかし、沖縄県民の望むような返還にはなりませんでした。私たちの要求は平和で豊かな沖縄を取り戻すということでした。当時の日本政府の言葉で言えば「核抜き本土並み」というものです。ところが復帰して来年は40年になるのに、何が「本土並み」かと。本土並みじゃないでしょう? 沖縄の人口は全国の1%、県土面積は0.6%なのに、在日米軍基地の74%が沖縄に押し付けられたまま66年が経過しています。沖縄だけに基地を押し付けているというのは、憲法14条の「法の下の平等」に違反する差別です。それが沖縄県民の訴えなんです。

 私は、普天間基地を即時撤去し、辺野古にも新しい基地はつくらせるべきではないと考えています。自然を守るのが21世紀ではないでしょうか。安全保障は沖縄だけに押し付けないで、国全体で考えていくべきだと思いますが、日本の進むべき道としては、平和を掲げて、アジアにすごい国があるというふうにしていけばいいと思います。中国と競争して、軍備を増強していっても得策ではありません。

■読谷村の闘いと、平和憲法の持つ壮大な力

 読谷村の村長には39歳で当選しました。読谷村は戦後、村全体が米軍基地でした。それが95%になって、私が村長になったのは本土に復帰して2年後の1974年ですが、当時は村の73%が米軍基地でした(2011年現在は40%)。村長を6期間やって、私が目指していた読谷の飛行場の返還の道筋がようやくできたので、退職しました。

 村長になった当初、私が「読谷飛行場を取り戻す」と言ったら、まわりの県議会の議員たちは「あいつは日米安保も知らないのか、何も分からん若造にそんなことできるわけがない」と言って笑いました。そんなとき私はこう言いました。「みなさんは255ヘクタールの基地になっている土地を取り戻そうとしたことがありますか?」と。誰もやってみたことがないわけです。このひと言で十分なんです。私には信念があります。自然は人間の力では動かせません。しかし、人間が作った仕組みは人間の真剣な努力によってのみ解決できるということです。基地も仕組みだから解決できるんです。

 私は村長として基地の返還運動を進めてきましたが、憲法の3本柱がなかったら、日本政府の圧力やアメリカ政府との交渉にはとても勝てなかったと思います。私は返還交渉をするときは、沖縄だけでなく日本にいるすべての米軍基地の司令官に会いに行きます。そのときに渡す要請文は、すべて自分で書くのですが、その文章の骨格になったのが憲法です。とりわけ主権在民の話です。「読谷村の主権者は誰ですか? 米軍でなくて読谷村民ですよ」という内容のものです。米軍といえども憲法を否定することはできません。

 私の闘いは、非常識とか不可能とか言われましたが、村民ぐるみの闘いをして、憲法で理論武装して、米軍や日本政府に立ち向かっていきました。村民に対してはいつも、21世紀の批判に耐えうる村をつくりましょうと言っていました。そして夢とか希望を、地域の人たちが共有し始めたわけです。そして自分たちの人権をまもるために、米軍の演習のたびに抗議集会を行いました。みなさんはパラシュート降下訓練というのを知っていますか? 降りてくるのは人間だけじゃありませんよ。トレーラーやジープやいろんなモノが降りてくるのです。それで11歳の少女がトレーラーの下敷きになって亡くなった事件もありました。私たちは、訓練の時にはすべての行事や学校の授業を中止して、村を挙げて抗議をしました。村長がその前面に立って闘ったのです。

 返還運動では、単に「土地を返せ」と言うだけではうまくいきません。そこで米軍基地の中に「文化のクサビを打ち込む」という作戦を立てました。基地の地域に村民が必要とする公共施設をつくっていったのです。たとえば福祉センターや村祭りの会場などをつくりました。

 また、新たな基地建設工事が計画されたときには、当時のカーター大統領に手紙を出したり、各新聞に声明を載せました。それで外務省や防衛省から文句を言われました。外交や防衛は国の専管事項だというわけです。でも私は反論しました。「自治体の首長がどこかの国の大統領に手紙を出してはいかんとは憲法には書いてないじゃないか」と。それで結局工事は中止になって、そこにスポーツセンターなどをつくりました。

 私は土地を取り戻して、読谷という自治体に政治、文化、教育、福祉、スポーツの拠点をつくりたいと思っていました。私はいつも「人が通れば道となり、その道がやがて文化となる」と言ってきました。道を切り開いていこうということです。読谷村は「人間性豊かな環境文化村」をつくろうと目指してきました。文化に国境はないからです。米軍が日本や沖縄の文化を否定することはできません。文化というのは時代を越えて人に感動を与える力を持っています。そういう村づくりを進めてきました。これが読谷の闘いであります。

 

  

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