2012年3月24日@渋谷校
「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。
講演者:山田昌弘氏
(中央大学教授)
講師プロフィール:
1981年 東京大学文学部卒業
1983年 同大学院社会学研究科修士課程修了
東京学芸大学社会学研究室助手、専任講師、助教授を歴任し、2004年より教育学部教授
2008年4月より、中央大学文学部教授
現在
内閣府 男女共同参画会議・民間議員
内閣府 幸福度に関する研究会等を務める
「パラサイト・シングル」や「婚活」という造語を考案・提唱し、流行させた。『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書)、『希望格差社会』(筑摩書店)、『迷走する家族 戦後家族モデルの形成と解体』(有斐閣)等、著書多数
現在、家族のあり方が大きく変容しています。子どもの虐待やネグレクトがある一方で、ペットを家族のように扱うなど、家族でないものが家族とみなされるような状況があります。また、「婚活」に象徴されるように、家族を持ちたくても持てないという人も増えています。そこには、さまざまな法的な問題も関わってきています。現代社会を揺るがしている家族の変容と法律との関連について、山田先生にお話しいただきました。
■不安定化する家族
家族と法律の関わりについてお話します。近代法の前提にあったのは、「家族は自然にしていればうまくいく」という考え方です。でも今、そこが揺れています。家族は自然な愛情でうまくいく、一方で家族以外は愛情がないから法律で律する。これまでそれでやってきたのですが、そういう区分けがどんどんできなくなってきています。
今も昔も、人々の「家族のあり方」についての意識は変わりません。ひとつは、家族が自分を大切にしてくれる「かけがえのない存在」であるということ。もうひとつは、「生活を保障してくれる存在」、つまりいざとなったときに助けてくれる存在だという意識です。
一方で変わったことが二つあります。ひとつは家族、つまり「かけがえのない存在」は自由に選択できるものなのかどうか、という意識です。それは「家族ペット」と児童虐待の問題に絡んできます。もうひとつは、「家族は誰にでも自然に与えられるものなのか?」というもので、これは「婚活」や「おひとりさま」といった言葉に表れている意識です。これは今、家族がいない人が増えていて、今後ますます増えていくということにつながっています。
こうした問題から見えてくるのは、「家族は自然に放置すればうまくいく」というものではなくなってきているということです。私は、これを近代社会の危機だと考えています。
■家族は選択できるのか?
家族の変化の象徴が、家族ペットと児童虐待です。いずれもここ20年で著しく増えています。家族ペットというのは、本来家族ではないペットを家族とみなすということです。この20年間でペットの頭数はあまり変わっていませんが、一匹あたりのペットにかけるお金がどんどん増えています。それから、逆に家族を家族でないかのように扱う児童虐待は、1990年代後半からどんどん増えています。
私は「ペットは家族か?」という意識調査をしました。その過程で、ある高齢の女性が、家庭裁判所に「ペットに全財産を譲りたい」という相談をしたという話を知りました。息子がいるのだけれど、「息子と嫁には一銭も残したくない」と言うのです。ペットは法律上は物と同じですから、遺産は残せません。でもその人にとっては、ペットは自分を大切にしてくれる存在だけれど、息子と嫁は大切にしてくれない。ということで、ペットと息子夫婦への気持ちが逆転してしまったのです。この例では、血がつながっているから、あるいは法的に結婚しているから自然に家族という意識が生まれるというわけではない、ということがわかります。
その逆が児童虐待です。死なせてしまうほどの虐待はそう多くはありませんが、邪魔だから放って置くといったケースが多くあります。法律的には親でも、意識としてはアカの他人として扱っているのです。これは「子どものために無条件で愛情を注ぐのが親」という社会の前提が変わってきていることを示しています。これについては対処法がないという難しい状況です。法律でも、「養育費を出せ」「無くすな」という強制はできますが、愛情は強制するわけにはいきません。ペットに対して愛情があるから家族とみなす。あるいは子どもを見ていても愛情がわかないから虐待する。家族であるかないかを愛情で判別すると、社会は混乱します。
■近代社会の矛盾
近代社会の原則は、公とプライベートの分離です。少なくとも法的には家族か家族でないかではまったくの別扱いになります。家族内のことは情愛や自己犠牲が大事だけれど、家族外のことは利害関心に基づいて良いということになっている。辞めたい会社を辞めるとか、雇いたい人を雇うことは基本的に自由にできます。でも家族はそれができないし、普通はしないと思われてきた。家族法というのは、家族の中を調整する法ではなくて、家族の範囲、つまり誰が家族になるかを決めるものです。でも、家族ペットや児童虐待の例は、家族であるかないかを自分で決めているという問題なので、法律で対処できていません。現代社会の中で、そういうことがどんどん現われてきています。
それは近代社会が本質的に抱える矛盾が顕在化してしまったということだと思います。一方で個人の自由、自己実現などを謳いながら、一人ではさみしい。自分を大切にしてくれる存在がないと生きられないという欲求があって、その2つの欲求が共存している。
前近代社会では、自由な生き方が理想であるとは考えられていませんでした。家族がなくても、宗教や共同体という存在があったので、そうした矛盾が起きませんでした。近代社会では、家族と家族以外というカテゴリーで区切ってきました。家族以外は自由で、家族はかけがえのない存在として。それがうまく回っている間は良かったのですが、今は家族がいても、自分を大切にしてくれるとは限らない状況が拡がったというわけです。
■「婚活」と「おひとりさま」は裏と表の存在
次に、家族がいない人が増えているという問題をお話します。近代社会はほとんどの人が結婚して家族がいることを前提としてつくられてきました。しかしそういった社会で、家族の存在が自明ではなくなってくると、問題が生じてきます。そのため「婚活」のように、意識的に結婚を目指して活動するということが出てくるわけです。
1980年代頃までは、結婚しようと思えば基本的には誰でもできていました。当時は自然に出会って自然に結婚できていたのが、今はそれを待っていたら結婚できなくなってしまう。そんな時代になっています。上野千鶴子さんが『おひとりさまの老後』という本で言っているのは「家族なしでも生きていく技術とか努力」を磨くことです。その上野さんは私の「婚活」の本を読んで、こんなに大変なんだったら結婚なんてしない方がいいわねとおっしゃっていました。でも私の印象は逆で、上野さんの「おひとりさま」を読んで、こんなに大変な思いをするのだったら、結婚した方が楽だと感じました。いずれにしても、「婚活」が流行るのと、「おひとりさま」が流行るのは、コインの裏と表なのだと思います。
「無縁社会」という言葉も2010年に流行りましたが、家族なしで孤立してしまう人がすごく増えている。これも自分を大切にしてくれる存在がいなかったり、将来いなくなるかもしれないという不安が高まってきたので、流行した言葉だと思います。 アンケートで、「一番大切なものは何ですか」と聞いたときに、50年前はお金という意見が多かったのですが、年を追う毎に「家族」と答える人が急増しています。20年前までは家族がいるのは当たり前だから、人々は意識していなかった。この20年の間に、家族がいないとか、いなくなるかもしれないと不安に思う人が増えてきたということになります。
自分が大切にしてもらえる存在が欲しいという欲求は高まる一方で、それを供給することが難しくなっている。そういう時代に直面している中で、法律も含めてどうしていかないといけないのか、簡単に答えは出すことはできません。私は、それを社会全体で考えなければいけないと思っています。
(構成・写真/高橋真樹)