2012年11月17日@渋谷校
「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。
講演者:孫崎享氏
(評論家、元防衛大学教授、元外交官)
講師プロフィール:
1966年外務省入省。英国、ソ連、米国(ハーバード大学国際問題研究所研究員)、イラク、カナダ勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任。2002年より防衛大学校教授。2009年3月退官。著書に『日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて』、『日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土』、『戦後史の正体』など多数。
中国の台頭によって大きく変化するアジア情勢の中で、日本はいま岐路に立たされています。2010年、中国は製造業生産高で米国を追い抜きました。日本でも、すでに対中国輸出は対米国輸出を抜いています。20世紀の初頭から米国が一貫して世界一位の座にあったことを考えると、この変化は歴史的大事件と言えるでしょう。これによって米国の東アジア戦略も変化しています。しかし、東アジアとの連携を深めて行かなければならないこの時期に、日本と中国の間には、尖閣諸島をめぐる混乱が生じてしまいました。尖閣諸島問題の本質は何処にあるのか、どう対応すれば良いかなどについて、元外交官である孫崎享さんに語っていただきました。
■「尖閣諸島は日本固有の領土」というのは自明なのか?
尖閣問題を、法律的な面から考えていきましょう。多くのテレビ番組で尖閣問題が取り上げられる際には、「日本固有の領土、尖閣諸島は…」という枕詞がついています。その尖閣諸島をどうしていくのかという議論には、大きく分けて2つの方向性があります。一つは、石原(慎太郎)さんの発言に代表されるように、固有の領土だから日本の立場を強めるために、船着き場をつくるなど、いろんな事を実行していこうというものです。もう一つは、両者が主張している内容を踏まえて、紛争にならないように棚上げ方式でいきましょうというものです。
日本政府や日本の国際法学者のとっている「固有の領土論」の根拠とは、日本が1895年に、約10年間、尖閣諸島が誰のものにも属していないことを確認して、占拠することを決めた、というものです。それは、無主の地は先に占拠した国の物になるという「先占の法理」が根拠になっているのですが、それについて考える必要があります。
「先占の法理」は、ドイツやイタリアといった後発の帝国主義国が拡大してきた頃、国という存在を規定して、そうした国家が明確に統治をしていない土地である限り、それは無主の地であると決めたことに始まります。これは、植民地時代の国際法の考え方でした。当時の国際法では採用されましたが、現在からみるとかなり疑問があり、第二次世界大戦以降は、国際法ではほとんど使われていません。
例えば、その当時各地に住んでいた先住民族は、行政機構を持った国家を作っていたわけではありません。しかしその土地で暮らしていたので、そこを「無主の地」とは言えない。そのような人々から土地が奪われてしまったという歴史を踏まえて、「先占の法理」というアプローチが必ずしも正しくなかったのではないか、という見直しがなされています。日本の国際法学者は1930年代に盛んだったその「先占の法理」を掲げて正当性を主張していますが、少なくとも40年間使われていない法理で良いのかどうかを考える必要はあります。
今日の国際法の基準では、領土問題をどのように判断しているかというと、国と国との約束事、条約がまず優先されます。そして条約がないところでは、現有しているのが誰かというところで判断しています。それを考えれば、日本の政府や学者は「尖閣諸島が日本固有の領土だということは自明だ」と言いますが、その論理が国際的には通用しないことがわかります。
◆ポツダム宣言とカイロ宣言には何が書かれているか
皆さんご存知の通り、日本は終戦時に、新しい国づくりの出発点として、ポツダム宣言を受諾しています。領土に関してポツダム宣言に書かれているのは以下の3点です。「日本の領土は本州、四国、九州、北海道とする」、「その他の島々は連合国側が決めるものとする」、そして「カイロ宣言を遵守する」という3つです。では、カイロ宣言にはどう書いてあるでしょうか?
カイロ宣言では、「満州、台湾、澎湖島のごとき、日本が中国から奪ったすべての領土を返す」と書いてあります。これはチャーチルとルーズベルトと蒋介石が合意したもので、それを日本が守るという内容です。少しややこしくなるのですが、1895年に日本が無主のものとして尖閣を領域に入れたということ自体が、カイロ宣言で言う「中国から奪った島」に入るかどうかという議論が生まれます。それは先ほどの「先占の法理」とも絡んでくる議論です。
いずれにしても、尖閣をめぐって、政府や学者などいろいろな人が「固有の領土であることは自明」と語っていますが、自明ではありません。そう言っているほとんどの人は、実はカイロ宣言に何が書かれているかを知りません。日本がポツダム宣言で約束した内容を踏まえていない発言です。そしてこのことは、私たちが使う教科書にも掲載されていないのです。例えば山川出版社の日本史の教科書には、ポツダム宣言の領土問題の項は記載されていません。カイロ宣言の文面も記載されていない。日本がポツダム宣言で約束をした内容を、我々は歴史の授業で習わないので、知らないわけです。
そしてこれは北方領土問題に深く関係しているのですが、サンフランシスコ講和条約で当時の吉田首相が「国後・択捉は千島列島に含まれていること」を確認し、「その千島列島を放棄する」と約束しました。しかしこれも教科書には記載されていません。このように、領土問題に関係する重要な3点が、皆さんが勉強する際の基本となるべき教科書に、何も書かれていないのです。皆さんは、日本の教育は中立だろうと思っているかもしれませんが、そうではないということになります。
私は外交官になって、当時のソ連に赴任しました。そこで発行されているプラウダという新聞は、共産党の機関紙です。プラウダというのは「真実」という意味ですが、国民の誰もがそこには「真実」が書いてあるとは思っていませんでした。ある意味で、情報へは一定の距離をもって、冷めて見ていたということになります。でも日本の場合は、テレビや新聞では一般的には正しいことを言っていると思われています。少なくとも、領土問題である種の情報操作が行われているとは思っていません。
テレビ番組などでも領土問題では感情的な議論が先行してしまっていますが、テレビでコメントをする影響力のある人々が、法律論的にどうなっているのか、あるいはそれを議論するための基本文献を知らないというのは、私は大きな問題であり、危険でもあると考えています。
◆尖閣問題は米国が埋め込んだくさび
尖閣領有問題について、米国は中立と言っています。ではいつから中立と言ったのでしょうか? それは1971年、沖縄返還が決まったときでした。沖縄を日本に返すまでは、米国は、尖閣を沖縄の施政下に置いていました。それを返還時にわざわざ外したのです。
当時の米国のリーダーは、ニクソンとキッシンジャーです。彼らは中国に行きましたが、議会の反対で1978年まで国交を回復できませんでした。その間に田中角栄が日中国交回復を行います。キッシンジャーは怒り、それがロッキード事件につながりました。そのことは、後にキッシンジャー自身も触れているので、確かだと考えられます。それと同じ時期に、尖閣問題については中立だと言ったわけです。
尖閣諸島の問題は、日ロを対立させる目的でつくられた北方領土問題と同じように、日中を離反させるためにあった道具ではないか、という考え方を持ってもおかしいことではありません。「1950年代に北方領土というクサビが打ち込まれたのと同様に、1970年代に日中の間に尖閣問題が埋め込まれた」と語っているカナダ在住の日本人の学者の方もいます。それと同時に、尖閣の緊張と、日米同盟の強化が並行して進んでいるということも知っておく必要があります。
◆領土問題をどうするのか?
2012年の10月に、玄葉外務大臣がドイツ、イギリス、フランスを訪れて日本の立場を支持してもらうよう説明しましたが、どの国も支持しませんでした。玄葉大臣は「尖閣は我々固有の領土なので、それを信じて認めてくれ」と言うのですが、そのような話は世界では通用しないのです。どの法律にどう書いてあってと証明しなければいけないのに、それが何もありません。
フランスのル・モンド紙は「日本は尖閣問題で国際的に孤立している」と書きましたが、その通りです。しかし、日本国内では何の根拠もないのに「固有の領土であることは自明」と言っても誰も疑問をもたないようになっている。尖閣に碑を建てたり、港を作っても何の意味もありません。でも、それが正しいというような世論をマスコミが煽っています。しかも中国や国際社会が何を言っているか、ほとんど知らずに喧嘩をしているような状況になっているのです。
では中国は何を言っているのでしょうか? 日本が国有化をしたことで、尖閣問題を棚上げにしてきた中国の主張が、少し変わってきました。これまで日本のことを専門にしている中国の学者の方たちは、「棚上げを言うことは、日本に有利な方便なんだ」と言ってきました。棚上げにしておけば紛争にならないし、それが日本の利益にもなることを日本人はわかっているから、国内向けにその手法を使っているんだと言い続けてきたわけです。以前は、例えば石原さんや前原(誠司)さんが過激なことを言っても、学者は「彼らは日本の本流とは違う」と説明をしていたのです。でも国有化されたらそれが通用しなくなりました。これからは、日本側がおかしいことをやったら我々もやるぞという感じになってきています。いつ紛争が起こってもおかしくないような状況です。
領土問題の解決について参考になるのは、ドイツとフランスの国境地帯にあるアルザス・ロレーヌ地方の例です。ここは九州の3分の2くらいの面積を持つ地域で、歴史的にドイツとフランスの間で領有権が争われてきました。どちらかというとドイツ語を話している人が多く住んでいましたが、第二次世界大戦の後、フランスのものになりました。しかしドイツでは、そこを取り返そうという動きはありませんでした。領土問題を乗り越えて協力を目指したことで、現在この地域は、EU議会の中心地として、2つの国にまたがるヨーロッパの特別な地域になっています。
考えてみたら、埼玉県と東京都の県境がどこにあるかなんて誰も意識していません。あまり意味をもたない問題なんです。ところが、それが国と国との国境になったとたん、ものすごい意味を持ってきてしまう。領土問題というのは、紛争にしないのが国際的な知恵なんです。日本の場合はその戦略がありません。
ここまで領土問題についての課題を述べてきましたが、私は日本人に対する希望は失っているわけではありません。メディアが客観的な情報を伝え、しっかり状況を理解すれば、人々は正しい選択をすると思っています。まずは感情論ではなく、法律や基本文献に基づいて、論点をはっきりさせていく必要があります。日本はこんなに経済が悪いのに、「経済が悪くなっても尖閣問題を優先にすべき」と言う人がいますが、そういう人に対してあなたの論点の証拠はなんですか? それがどれくらい有力なんですか? と話し合っていくべきではないでしょうか。
(構成・写真/高橋真樹)